2015年4月6日月曜日

信教の自由と性的指向の自由

本題にはいるまえに、性的指向と、性的嗜好は、大きく異る概念であり、まったくの同音異義語であることに注意をしておきたいところです。

まったくの同音異義語であるふたつの概念が、まったく異なるとまで言い切らなかったのには理由があります。

性的少数者の権利がようやく認められはじめた米国やヨーロッパのいちぶに比べると、日本では、エンターテイメント業界での話題づくりとして以外は、まだまだ性的少数者は社会の片隅に押し込まれているまたは引き込んでいる状況が多く見られるようです。新興国ではもっとひどいところもあるそうです。本来まったく異なるはずの、性的少数者の性的指向が、とくにたまたま日本語では同音である性的嗜好が倒錯的であることと同じように、非道徳的だったり、非常識的だと見られているのが現状でしょう。

(ただし、サディスティックな性的嗜好を持つ人とマゾヒスティックな性的嗜好を持つ人がうまくマッチングして合意のうえで楽しんでいるプレイは、外見上は、暴行罪や傷害罪などの刑法犯罪の構成要件に該当します。これらの違法性が阻却されるべきかどうかは、尊厳死(安楽死)と同じような刑法論の重要な論点だと言えます)。

カッコ内のところにまで踏み込む時間はありません。すでに、長すぎる本来脚注であるべきものを先行させてしまいました。きょう注目すべき記事は、ウォールストリートジャーナルの、

「信教の自由を保護する州法が、企業側からも性的少数者側活動家からも猛反発をうけ、修正されることに」

‘Religious Freedom’ Measures Revamped

 わたくしは、なんだかんだ言って、日本に生まれ育って良かったなと思うのは、特定の宗教を極端に嫌忌(けんき)したり、逆に特定の教祖さまに熱狂したりすることが、わたくし自身もないというだけでなく、わたくしのまわりにもそんな感じのひとがまあまあ多いからです。なので、日本の歴史で言えば、島原の乱などを引き起こしたキリスト教弾圧についてはキリスト教徒が可愛そうだと思います。ゆえに、我が国の憲法で信教の自由が規定されているのは正義に叶っていると思ってしまいます。


ところが、リンクを貼った記事で、インディアナ州とかアーカンソー州でいま喧々諤々となっているのは、同性愛や両性愛などを認めていない宗教を信仰する人が、そのような性的指向を持つひとから仕事の依頼を受けないとか、アパート経営者であれば(家賃をちゃんと、または余計に?)払うと言っているのに入居させない、さらには(おそらく企業経営者自身は熱狂的な信者ではないかもしれないが)性的指向にうるさくこだわる人口が多い州では、従業員同士の、または個人顧客とのトラブルをあらかじめ避けたいがために、そのような性的指向を持つ人達を雇用しないとか、これまであって、これを禁止する。つまり、入居差別や雇用差別は弱者いじめだと言わんばかりの犯罪とするとあっては、逆に、信教の自由をないがしろにするものではないかという話題です。

(従業員の数も個人顧客の数もいちじるしく多そうなウォルマートの本社は、記事にもあるように、アーカンソー州にあります)

「法とは何か?」「正義とは何か?」これらの定義は、ユークリッド幾何学での点や線の定義よりもさらに直感しずらく難しい問題です。わたくしの高校時代の政治経済の先生からの推薦図書うちの一冊だった岩波新書『法というものの考え方』の著者である渡辺洋三先生(1921-2006 元東京大学教授など)は、その後の同じく岩波新書『法を学ぶ』で「法とはズバリ正義である」と書いておられました。わたくしはこれでは自分の疑問の解決にならないと思って、立ち読みしていたそれを書店の本棚に戻した記憶があります。

きっと昔も今も、弁護士や法律家を目指す優秀な学生のほとんどが、「アラバマ物語」(黒人差別、冤罪)、「白い巨塔」(医療事故)などを追体験することから正義感や義憤を育ませて勉学に勤しんできたのだと思います(↖例えが古すぎてスミマセン。せめて「リーガルハイ」くらいにしておかないと・・・)。

しかし、一方的に軍配をあげ辛いふたつの正義がぶつかるときに、はたして法とは何なのかとあらためて考えてしまいます。

(戦前の世界史教育がどのようなものだったのか?もしかしたらそんなものはなかったのか??不案内で申し訳ないのですが)戦後教育のなかで、わたくしたち日本人は、立憲主義というものが、そのお手本となる大英帝国で、マグナカルタ⇒権利の請願⇒権利の章典によって、王権を制約させ、市民が勝ち取った正義であると学んできました。これは、前述の渡辺洋三先生の考え方があてはまる綺麗な例ですし、憲法第九条に代表される護憲イデオロギーの根本的な考え方とも言えます。問題は綺麗におさまらない複数の正義です。



2015年4月1日水曜日

ワインと狩猟とグローバル資本主義

いまだに、塩山や勝沼のワインは、コストパフォーマンスという指標では(※1)、自由貿易のもとでは比較優位とはまだまだ言い難く(※2)、個人の趣味ならいざ知らず、飲食店として数を仕入れるとなると、経営の屋台骨を揺るがしかねません。

いっぽう、I(アイ)ターンブームは根強く、リーマンショックや東日本大震災は寧ろその潮流の触媒になっています。人口減少と空き家問題を抱える山梨県も、ご多分に漏れず典型的なIターン先になっています。

わたくしが頻繁に訪ね、農林業関連の非営利団体やワイナリーへの水先案内人になってくれているひともそのひとりです。

(※1)コストパフォーマンスと言っても、決して客観的な指標ではありません。人の味覚なんて、蓼食う虫も好き好きなのですから。
(※2)天候、土壌、人件費どれをとっても輸入品に対抗するのが容易でない日本のワインなのに、その生産地は、むしろ、より多くの都道府県に広がっています。極端な事例として東京都(と言っても練馬区)にも及んでいます。そこまでレアアイテムだと、コスパという概念から掛け離れた3500円という値段がついてもその人気に生産が追いつかない実情があるようです。いっぽうで、まだまだ例外の部類かもしれないけれど、塩尻のメルローは国際競争力があることを付け加えたいと思います。


さて、塩山や勝沼は、わたくしが足腰を鍛えるためのベースキャンプにしている地域でもあります。自分自身への高齢化対策ではかならずしもありません。国内の単純な平均よりも高齢化が進み後継者難に陥っている猟友会への入会が念頭にあります。里山の農林業に被害を与える害獣を駆除し、それを都心のジビエブームに充当するというエコロジーでエコノミーな発想です。


塩山と勝沼を取材するたびに、この野心と発想が打ち砕かれていきます。空前のジビエブームの恩恵に、《本州の》中山間地があずかれず、都心のジビエレストランへの供給元は99%北海道である、つまり蝦夷鹿であるという事実。

これは、
①ニホンジカとエゾシカの品質の違い
②地形の違いとそれによる捕獲方法の違い

このうち、①はどうしようもないので、さておくとします。②について。本州の中山間部で害獣を駆除するには熟練した射手が、細くも生い茂った杉林(※3)の間を縫って、動く鹿を射止める必要がありますが、北海道では10ヘクタールもの平地を利用して、エゾシカの好きな餌のまわりにどんどん追い込んで行き、まとめて捕獲することが出来るらしいのです(本州の中山間地のような駆除方法がまったく行われていないわけではない)。

捕獲コストの違い
⇒スケーラビリティの発生
⇒捕獲直後の精肉(人間の食用(=商用)となるための重要な要件)を可能にするインフラとロジスティックスへの投資の採算性が向上

これすなわち《ネットワーク外部性》による《フィージビリティ》の発生への連鎖です。

しかも、北海道と本州は、いわば固定相場です 笑。どこかの山奥の中央銀行のように突然無制限介入を辞めたからと言って固定相場が崩れることもありません 爆。

(※3)山林という不動産をかつては収益していた地域の豪族が、材木の《比較優位》が失われたことで、間伐作業などに経費を掛けられなくなった。十分な太さに至らない杉林は、森の下草の光合成を蝕む。山林の保水力を蝕むことにもなるし、野生獣にとっての食べ物も不足させる。やむをえずかわりの餌をもとめて里山から人里へと「侵入」してきている。《比較優位》と書きました。戦前の林業も絶対優位はなかったかも知れませんが、戦後失われたのは工業化と行動成長による比較優位でしょう。

本州の中山間地域では、エコロジーとエコノミーを両立する好循環は生まれ得ないのか???

補助金や山林の権利関係(強制収容による国有化公有化)(←どちらも税金ですが)の話に行くところですが、ポール・クルーグマンの切り口を使うと、北海道と本州の里山の微妙とは言えない初期条件の違いをうまく乗り越えさせてあげれば、バッテリーがあがっているだけで、エンジンもガソリンも健全なクルマのように、走りだしてくれるのではないかと発想したいところです。

このブログでは、たびたび大きすぎる政府を批判してきました。いっぽう、本州の中山間地域の農業、林業、狩猟(業)にはネットワーク外部性があると指摘しました。外部性があるのであれば、公的介入は是認できます。このような分野こそTPPでは例外的にデリケートに扱われなければならないと思います。もうひとつ指摘した、里山の保水力の低下もこれあり。ネットワーク外部性を論じるまでもなく、水利には外部性があるのですから。

2015年1月26日月曜日

スイス動乱とギリシャ動乱===ユーロゾーンの行方は

先々週1月15日木曜日のスイス国立銀行(SNB)による対ユーロ相場(EURCHF≧1.20)維持のための無制限介入をもうやめますという発言。

週末のギリシャ総選挙で、財政緊縮に反対し、ユーロ圏離脱を主張する派閥をも含む野党左翼政党が、予想を上回る勢いで大勝。

背景はまったく異なるものの、人為的な固定相場制度をあきらめるべきかどうかをテーマとした政策決定に関わるという点では共通しています。

固定相場制を吟味するときに、経済学でよく出てくるのが、「国際金融のトリレンマ」という命題です。

ジレンマが2つの満たしたいことがあるときにどちらかいっぽうを究極の選択としなければならないことだとすると、トリレンマは3つの・・・・ひとつの欲求はあきらめざるをえないということです。

国際金融のトリレンマでいう、「独立国」にとっての、3つ同時に満たしたい無い物ねだりとは、

①自由な資本移動
②安定した為替相場
③独立した金融政策

アベノミクスほどわかりやすい例はなくて、②を犠牲(!?)にして、(①と)③を手に入れているということになります。ギリシャの新しい与党(連立政権)は、中核与党の内にも外にも、一枚岩でないところはあるとは言え、これまでの政権と異なり、③を取り戻すためには、②を手放してもまったく惜しいとは思わないという立場だと思います。

もっとかんたんに言うと、新しいギリシャの左翼政権は、アベノミクスを真似してみたいということなのだと思います。

いよいよ右左がわからなくなってきました!!

長期的または理想的に言えば、財政や金融のばらまき政策がその国をリッチにさせるということはないはずです。が、現実のギリシャは、2011年のユーロ危機以来、ドイツ(など)からの国債肩代わり+借り換えの引き換えに、緊縮財政を義務付けられたこともあって、あいかわらず4人に1人が失業中、若者の2人に1人が失業中、ドイツ(など)への海外出稼ぎや移民(転出が転入をうわまわる状況)、ゆえに人口減少という状況に喘いでいます。

さて、ここでわたくしの暴論です。日本もギリシャも、②安定した為替相場、なんてありがためいわくだ。ということで、自国通貨安を演出したいという欲求が(金融)政策担当者にあります。

そもそもなぜでしょうか???

円安には輸出(数量)の増加というメリットのうらはらに、輸入(価額)の増加というデメリットがあります。加工貿易を行っている平均的な企業を想定すると、円安は、売上高(または数量)の増加と仕入れコストの増加と両方に効いてくるはずです。すると効果が現れるのは、国内で(通常日本円建てで)雇用している人件費の実質値のコストセーブが出来るというところ(だけ)です。

つまり、円安政策と労働賃金の名目額をカットする政策とは実はほとんど同じなのですが、後者を押し通せる政治家や企業経営者は、なまじ民主主義の国では皆無に近いのです。

その答えが円安とブラック企業ということになります(この2つは代替的でもあるし補完的でもある)。

名目賃金を押し下げる(見直す)ことを困難ならしめている駄目押し要因として、最低賃金制度があります。

政治家は嘘をつくのが仕事です(まったく以って皮肉で申し上げていません)。アベノミクスで名目賃金があがると国民を煽っておいて実質賃金をさげたのは、まさにこの道しかなかったということでしょう。

ギリシャに戻りますと、ギリシャが甘んじた財政緊縮メニューのなかには、最低賃金の切り下げがありました。「それだったら働かないほうがまし」「それだったらドイツに出稼ぎにいくしかない」という人が多発して、積年の恨みが今回の総選挙結果をもたらしたのでしょう。

しかしこちらをごらんください。


固定相場を措くとして、域内のヒト・モノ・カネの自由な行き来を保証しているEUにおいて、ギリシャの最低賃金の引き下げはもともと不十分であったことがわかります。

不十分に妥協がなされた最低賃金制度でも、失業、移民、貧困、不満が解消されるどころか増幅したわけですから、EU、さらにそのなかの固定相場経済圏であるユーロゾーンというのは、民主主義との相性がとんでもなく悪いと言わざるをえません。

・・・なんてことをわたくしがはじめて発見したかのように得意気になろうとしていた矢先、すでに、ハーバード大学の先生でDani Rodrikという国際(政治)経済学者がだいたいそのようなことを提唱していたようです・・・

ギリシャのような政権交代につながるかどうかはなんとも言えないにしても、ギリシャ以外のユーロゾーンのあちこちの国で、ユーロ離脱を主義主張としている政党や会派が人気を強めている動きには注目です。

2015年1月17日土曜日

アヴァトレード・ジャパンは大丈夫です。が、、、スイス発「暗黒の木曜日」の閻魔帳の気になる中身

暗黒の木曜日を耐え抜いた会社はリスク管理がちゃんとしていた。
暗黒の木曜日のせいで倒産した会社はリスク管理がちゃんとしていなかった。

・・・

という単細胞的な総括は、まるで間違っています。

・・・

自分のあたまに落ちてもおかしくない雷がたまたま一緒に散策していた友人に落ちたという気分です。西行法師でなくても、運を喜ぶ余裕などなく、世を憂う気分になります。

現時点でもっともまとまった情報はこちらだと思います。

The Foreign Exchange Market’s Black Thursday: Industry Losses May Surpass $1B - See more at: http://forexmagnates.com/foreign-exchange-markets-black-thursday-industry-losses-may-surpass-1-bln/#sthash.LKnSXa2P.dpuf

自己資本のレベルに比べて巨額の損失を一瞬にして被り、営業の継続が難しくなった会社をはじめ、上から下へと順番に、FX会社ごとの損失額が記載されています(この数字は今後変わる可能性もあるとわたくしは思います)。

繰り返しになりますが、この閻魔帳だけで、損失額の大きい会社ほど、リスク管理が杜撰だったというのは間違った解釈です。

なぜか?

お客さまからいただいたご注文を、
①どれだけ、
②どのように、
③だれに(巨大金融機関?)対して、ヘッジ(カバー)するかということは、FX会社経営の核心部分です。同様に、
④おきゃくさまにどのような条件(商品スペック)を提示するか、
ももちろん最重要部分ですが、これは上記①②③からなりたつリスク管理方針(「リスク対リターン」のモデル)に深く依存しています。


一般的な筋論としては、ブローカーとしての忠実義務を果たすためには、上記①については、なるべく全額をヘッジすべきであり、上記②については、なるべく瞬時に(先に?後に?これも重要ですが機会をあらためましょう)ヘッジすべきなのです。そうでなければ、お客さまの損失が、ブローカーの利益となり、利害相反の関係に陥ること、逆に言うとお客さまが帳簿上の利益を計上しても、取引の相手方であるブローカーにとっては市場リスクを許容できない損失を意味し、支払不能で利益を出金できない、、、つまり、①②をちゃんとやっていない、どころか、最初からやる気がない会社は、どちらに転んでも、お客さまに利益をお返しできないという理屈になります。

(ただし↑↑↑のお話は、わたくしどものような中小ブローカーが上記③でちゃんとした銀行とお付き合いができるということが前提です。巨大銀行の為替取引不正について別途整理が必要なのですが・・・)

現時点で巨額の損失を発表し、なかには経営の中断を余儀なくされた会社の多くは、むしろ、①は非常にきっちりやっていた、②もかなりきっちりやっていた(が、惜しむらくは、お客さまへ『注文が通りました』と連絡するスピードを競いたいゆえに、「瞬時」だが「後で」ヘッジしていた)というリスク管理方針だったのではないかと憶測します。


また、原因は大きくちがうものの、2008年のリーマン・ショックとひとつ似ているのは、店頭デリバティブ契約ならではのややこしさ、、、「市場リスク」が顕現化して損失が発生したらそれすなわち損失だが、利益が発生しても負けた相手が払ってくれなかったらそれもまた損失である(=「取引先リスク」の顕現化)というところです。わかりやすく言えば、現状というのは、まだ誰がどれだけ不渡り手形を握っているかわからない。。。ババ抜きをやっていると思ったら、気づいたらジジ抜きだった、ということがわるわけであります。これが上記③のポイントです。


最後に、上記④について。今回のスイス発の暗黒の木曜日は、FXのプロのあいだでは、いつ発生するかは時間だけの問題だと言われていたことではありました。いっぽうで、そのことを知ってか知らずか、スイス国立銀行がEURCHF≧1.20を死守すべく無制限為替介入を続けるだろうと楽観的に金利差をエンジョイする市場参加者はなかなか減少しなかったのだと思われます。そうすると、お客さまが満足する流動性(高いレバレッジを含む)を供給し、お客さまが狙っているユーロ通貨とスイスフラン通貨の金利差をなるべく生のままで提供する、という条件を守っていたブローカーには、対スイスフランのユーロ暴落(ドル円相場に例えれば30円以上の変化が「非連続的に」(←ここ重要)で大損を抱えてしまうであろう潜在的アービトラージャーが集中していた可能性があります。


アヴァトレード・ジャパンが、フルヘッジ・オペレーションの会社であるにもかかわらず、財務を健全に保てたのは、ただただ、いちぶのお客さまの不満や離脱を甘じて受け入れながらも、この手の取引に対して、お客さまから見たスワップの水準やレバレッジの水準を魅力薄に変更していっていたから、かも知れません。


これだけだとすると、好判断というよりは結果論くらいに謙虚に考えるべきで、上記①~④の匙加減をちょっとでも誤ると、じぶんたちがアルパリやFXCM、IG証券や(アヴァトレードのヘッジ先のバックアップ的存在でもある)サクソバンクのようになっていてもおかしくはなかったのです。


「お客さまへの忠実義務をきっちり履行して利益相反のない運営をしてきた会社は馬鹿を見たのだ。悪貨は良貨を駆逐するが如く、世に憚る業者として利益相反でいこう!」というのが業界にとって教訓の最終形であるならば、消えていってしまった好敵手たちが浮かばれないだけでなく、店頭デリバティブ取引に明日はないでしょう。


最後に大所高所。


スイスという国の、世界の金融産業のなかに占める独特の地位や、通貨マフィアとしての立ち居振る舞い、またとりわけ今回の行動(わたくしは、ダーティーフロートならぬダーティーフィックスのサドンデスだと呼んでいます)が、世界中の通貨マフィア同士が、血を血で洗うことになりはしないかというのを真剣に心配しています。


アヴァトレード・ジャパン 代表取締役社長 丹羽広