2020年10月30日金曜日

権力者は「マネーの本質」を秘匿する~中世《銀》の流通にみる通貨論

おかげさまで、10月もWiLL Onlineの連載を書き上げることが出来ました。

権力者は「マネーの本質」を秘匿する~中世《銀》の流通にみる通貨論

第二回目の奈良の大仏が思いのほか(!?)好評でしたので、そこからどんどんハードルがあがってしまいました。第三回目の平清盛が「輸入」して導入(?)したと言われる宋銭とは銅というバトンで繋がっています。第四回目のテーマは、いきなり、銀に昇格しています。銀を繋いだバトンとは何だったのでしょうか?

東アジア経済圏への銀の導入と、世界史の「誕生」

わたくしは、モンゴル帝国(のちの元)と大航海時代(のスペイン・ポルトガル)ではなかったかと考え始めています。実は、毎月、長い記事にお付き合いいただいているのですが、初稿はもっと長いのです。今回、編集長によりカットされた部分で、

WAC出版から「この厄介な国、中国」という名著を出されている岡田英弘先生は、「モンゴル人は、十三世紀に当時のほとんど全世界に広がり、その大部分を支配する巨大帝国を打ち立てた。(中略)実にモンゴルは、世界を創ったのである。」と豪語します(『モンゴル帝国の興亡』あとがきより。ちくま新書、2001年)。

岡田先生の、モンゴル人が巨大帝国を築いたことが「世界」を創ったことを何故意味するのかは、同先生の「世界史の誕生─モンゴルの発展と伝統」(ちくま文庫)1999年)を紐解かなくてはなりません。高校では「世界史」という教科があるけれど、中国史と西洋史ではその貫いている歴史観が水と油。中国の王朝や王権は、易姓革命という孟子や司馬遷(史記の作者)によって育まれた概念で正当化されてきた。西洋史にはそんなものはない。ヘロドトスはその著作「歴史」(※)で、アジアの代表であるアケメネス朝ペルシャという難敵にヨーロッパの代表であるギリシャが如何に立ち向かったか?という対立軸を導入した。モンゴル人が大活躍する12世紀までにも、中央ユーラシアの数多の遊牧民族(草原の民)が東西交流を細々と担ってはいたが、基本、東西は対立し、分断していて、世界(史)は存在していなかった。その壁をぶち抜いたのがモンゴル帝国(元)だった。。。

※ヘロドトスの「歴史」実はギリシャ語で研究という意味であって、ヘロドトス以前には民族や国家の物語という意味の歴史概念はなかったらしい。

第二回目の奈良の大仏にも書かせていただいたとおり、わたくしは高校時代は世界史が苦手で勉強する気も起きませんでした。岡田先生曰く、くっつけようがない中国史と西洋史を無理矢理くっつけて世界史なるものを教えようとしても辻褄があわない、どだい無理な話だと書かれています。今更ながら言い訳を見つけた気分です。

さて、岡田先生が非常に重きを置く遊牧民族について。

遊牧民族の出世頭モンゴル人の軍事力と経済覇権というエコシステム

モンゴル帝国以前にも、漢民族国家支配の中原を窺ってきた匈奴、ゲルマン民族に大移動を余儀なくさせたフン族、これらをはじめとしてユーラシア大陸の東西の端で、遊牧民族諸族の存在感は大きく、歴史を動かす燃料であり内燃機関であったと言えます。なかでも、勇敢だったのが、アケメネス朝ペルシャの攻撃にもギリシャの攻撃にも動じなかったスキタイ人やマッサゲタイ人です。両者は同族で風俗の多くが共通しています。さらに、匈奴とフン族は同族だったのではなかという仮説に立ちます。

ヘロドトスの記述によれば、「(前略)高齢に達すると、縁者が皆集まってきてその男を殺し、それと一緒に家畜も屠って、肉を煮て一同で食べてしまう。こうなるのがこの国では最も幸せなこととされており、病死したものは食べずに地中に埋め、『殺されるまで生き延びられなかったのは不幸であった』と気の毒がる」と。

農耕文明をベースにした現代の日本人から見ると、多くの遊牧民が共有するこのような風俗や価値観は奇異に思えますが、競争社会を生き抜くためにあちこちで採用され定着したというのがほんとうだとすると、そのなかでの最大級の軍事的成功者であるモンゴル帝国(元)は恐るべき存在であったと言わざるを得ません。

現在の日本の領土について言えば、縄文人がどのように弥生人によって駆逐されていったのかというのは有史以前の話です。記録が残される可能性があったのだとしたら、日本が初めて侵略された戦争は、元寇(蒙古襲来)における壱岐・対馬ということになるのではないでしょうか。あるいはさかのぼるとしても刀伊の入寇(1019年)となりここでも犠牲となったのは対馬です。

大東亜戦争における沖縄と同様の位置づけであるいわば日本の本土の人柱であった割に、いま高校の日本史の教科書や参考書を調べると、この重要性がほとんど無視されているように見えます。

そのうえで、何故ここまで、中世から近世にかけての極東情勢のなかで対馬が翻弄されなければならなかったのかを、ただ朝鮮半島に近いということだけでなく、銀の産地という観点で注目する必要を思いついたのでした。

沖縄と同じように日本本土の犠牲となり続けた対馬と銀山

貴金属資源に関すること、特に貨幣鋳造に関することについては、記録できたはずなのに存在しないというところが肝要です。奈良の大仏の500㌧もの銅しかり。皇朝十二銭しかり。

もうひとつ。

冒頭の問い、銀を繋いだバトンとは、まさにモンゴル人による洋の東西への未曽有の規模の侵略です。モンゴル人に必要だったのが日本の対馬銀。その理由は、中東以西の経済圏へと覇権を広げるには中国(経済圏)のスタンダードであった銅ではなかった。銀こそが古代メソポタミアからギリシャの都市国家の繁栄(※)を経て中世ヨーロッパへと続く国際交易の受容される通貨であって、モンゴル人は銀であるという新スタンダードに合わせる必要があったからでしょう。

※アテネ南郊のラウレイオン銀山は紀元前5~4世紀に最大の産出量を誇ったとされ、これがアテネの繁栄、アケメネス朝ペルシャへの勝利(サラミスの海戦など)の大きな理由だったとのことです。銀山の鉱区はギリシャ市民権を有する自由民にしか所有できず、労働者としては奴隷が大量に使われていたようです。

対馬の《沈黙した歴史》の背景には、①度重なる侵略戦争、②天平年間(7世紀後半)の銀山開発以降ずっと朝鮮半島(経由)で需要されてきた対馬銀の存在、③正規外交・通商ルートとしても倭寇の根城としても、重要な交通の要衝であった等、時々の権力者が敢えて記録を残さないという理由に事欠かなかった。記録が残っていたとしても、日本側、朝鮮側、中国側で記載内容が整合しない(対馬自身がそれらのどちら側に実効支配されていたのかすら実はわからない)という残念な問題があります。

つまり、江戸時代以前の貨幣の改鋳の記録が乏しいこと、鎌倉時代以前の鉱山開発の記録が乏しいこと(いずれもなかったはずがない)と同様です。

現段階では乏しい史料からの弱い仮説の域を出ませんが、

①元寇の途中撤退、

②元寇以降の(明の開祖朱元璋洪武帝により中原の漢民族支配が復活したあと)対馬拠点に倭寇が活発化したこと、

③対馬銀が枯渇したという記録もないこと、

④対馬の守護大名の宗氏が元寇を生き残ったと考えるのは不自然であること、

⑤宗氏が石見銀山の開発や朝鮮への銀密輸に深くかかわり、博多商人と手を組み、倭寇を操縦しつつも、いっぽうで明との貿易(朝貢貿易であり勘合貿易でもあった)のために日本の国書を偽造し、安心東堂を名乗るものに表見代理行為をさせていたこと(朝鮮側の資料にあり)、、、

これらを一貫して説明するには、対馬は元寇により、日本(人)の実効支配は続かなくなった(が、宗氏の子孫を名乗るバイリンガルまたはトリリンガルの自称守護大名が必要な限りほそぼそと京の政権と連絡はとっていた)と考えるのがいちばん自然だと考えております。

史料がない以上、対馬にGo toするしかないと思っているところですが、是非このような憂国の切り口から、今月の銀の話を読んでいただけたらうれしいです。