2016年2月24日水曜日

無人島の二人の男性は、その後どうなったのか???

>けんかはしないが、協力もしない。

と書きました。しかし、

>協力はしないが、餓死したり凍死したりするのを放ってはおかない。

という前提も加えて、その後もまだふたりともがんばって猟や漁にはげんでいることとしましょう。

>いっぽうの男Aがもういっぽうの男Bよりも仕事が早かった、かつまたは仕事をがんばった。そのために、男Bは男Aから家の軒先を貸してもらい、肉や魚をもわけてもらった。

とも書きました。厳しい大自然に、人間ひとりやふたりで戦っていく「社会」ですから、ジャン・ジャック・ルソーの「人間不平等起源論」や、ルイス・モーガンの「古代社会」、フリードリヒ・エンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」に描かれているような原始的で素朴な人間関係であったかとも思います。

困ったときは助け合うのが基本。

>家賃を払え。ツケでもいいが無銭飲食は許さん。さもなくば死ね。

というのは、もうちょっと人数(人口)が増えて、自然の脅威に対峙するための最低限のインフラが出来てきてから、だったのかも知れません。

そのインフラの起源としてひとつ考えられるのが、この無人島の例では、

>男Aが男Bよりも力持ちで、原生林を引っこ抜いたり、野獣と取っ組み合いして勝てることが多かった。

という、仕事の「量」の違いではなくて、

>男Aは、「急がば回れ」で、原生林を薙ぎ倒すまえにまずは鋸(ノコギリ)をこさえた。動物や魚を素手で掴まえるのではなく、まず槍(ヤリ)や銛(モリ)をこさえた。

男Bは、そうしなかった。そうする知恵がなかった。ということで、仕事の「質」の違いがあった。


川から砂鉄を集めて、森から木を集めて、火をふんだんに焚いて鋸や槍や銛の尖端部分を作るのはたいへんな労力と時間が必要なので、素手による伐採と狩猟(漁)とを並行しなければ餓死するでしょうから、このあたりは「協力しない男2人モデル」では無理があります。

「急がば回れ」の知恵を授かり、社会の仲間にその知恵を授け、分業をも提案し、インフラを作る。これができるひとがリーダーと呼ばれ、豪族、貴族、王族(しばしば宗教的指導者を兼ねる)として支配階級を形成していったのでしょう。

男Aが披露した超過生産力や道具は、男Bにとっては、レンタル料や家賃を払ってでも使いたくてたまらないものです。

レンタル料や家賃は、現代の経済社会でもそうですが、金利や利息と置き換えられます。ただし前者には減価償却費相当分や陳腐化リスクに対する保険料相当分のほか場合によってはメンテナンスに関する手間賃が含まれます。


というのが前回のお話でした。

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このような単純極まりないモデルであっても、経済学の学説史に名前を連ねる学者(???)の間で、
①価格とは何か?(食べ物や材木の取引条件)
②金利とは何か?(道具の取引条件)
③価値とは何か?(①②の数値の正当性の検証)
という根本的な問題に対する見解が異なっていたのです。

それをひとくちに、古典派経済学は労働価値説を採用しており、代表的な学者として、アダム・スミス、デビッド・リカード、カール・マルクス、、、、、、などと要約されてしまうと、かえって簡単な道理が複雑になってしまいます。

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先に(最初に)、鋸などを開発した男Aは、それを喉から手が出るほど欲しがる男Bに対して、好きなだけ金利相当分をふっかけることが出来たでしょう(ふっかけなかったかも知れず、それは男Aの自由です)。男Bは食うものにも困っていたと前提しましたが、野宿しながらも何とか狩猟はできていたとするならば、槍や銛を手にすることで、一日あたり、今日までの3倍の魚が取れると思いきや、今日までの一日あたりの捕獲量の1倍から2倍のあいだなら、甘んじてレンタル料を払おうと思うでしょう。

現代の世の中から冷静に見ると、この利息はぼったくりのようにも見えますが、当時としてはこの利息は、男Aに授けられた知恵と労働(≒勤勉)に対するまっとうな評価であり対価です。


※知恵と勤勉を含む
※※捕獲された動物や魚、切り出された木

つまり、木こりとして猟師または漁師としていままさに汗を流している男Bの労働だけが付加価値なのであり、最終財の価格として実際には上乗せされて当然の、道具のレンタル料は、付加価値ではない。と、考察しています。

道具(固定資本)を活用する前も後も、産み出された結果である肉や魚や材木は100%労働のたまものであること自体は、以上の説明からあきらかであり、「価値を生み出しているのは労働である」という段階においては、労働価値説も正しそうです。

そして、労働価値説を採用することが、必ずしも金利(または金利が核心部分を構成するレンタル料や家賃など)が正の数となることと、矛盾はしないようです。

しかし、

>労働が価格を決定する。

>労働だけが付加価値なのだから、価格(※)との差額があるならば、それは利息のたぐい(※※)の不労所得である。

※流通価格や交換価値
※※この場合は、レンタル料、家賃に加えて、地代や配当を含めても良いでしょう

とまで主張されると、果たして絶対普遍の真理かどうか疑わしくなります。

カール・マルクスが資本論執筆のために大英博物館に通っていた頃のロンドンは、産まれた時点で貧富の差が激しく、乗り越えられない階級の壁があり、壁のこちら側はワーキング・プアしか居ない状態だったかと思われます。片目で非人道的な現実の絵を、もう片目でアダム・スミスとリカードの書物を見たカール・マルクスが、かなり無理をして剰余価値学説を捻り出したと読むこともできそうです。

>男Aという知恵者が居たわけですが、男A+という更なる知恵者が居て、男A+は独立して更に高>性能の道具を作っていた。開発には余計に時間が掛かったものの、男A+の道具が発表される>と、もはや男Aの道具はだれも使わなくなった。

としましょう。

この場合、男Aは男Bからのぼったくりリース料は数日分しか稼げず、男Aが道具開発のために費やした砂鉄収集に始まる鉄器づくりにかけた労力(その間できていたはずの狩猟採集活動という機会費用)は、おそらく取り返せなかったことでしょう。

男A+が三人目の男として加わった無人島モデルでは、男Aと男A+のふたりが私有財産を持っています。男Bは私有財産を持っていません(道具も住居も賃借している無産階級=プロレタリア)。AもA+も等しくBを「搾取」できるわけではなく、固定資本の開発の良し悪しで、「利潤」がプラスにもなれば「マイナス」にもなる。これまたAやA+の労働次第なのである。ということが言えるのです。

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さらにすっとばすと、労働価値説と相容れないとされている限界効用理論(※※※)でも、少なくとも長期的には利潤率(利子率)は(機会費用を考慮するとゼロに)収斂するということが導かれます。


が、たとえ長期的にでも、利潤率(利子率)は一定とならないという、キャピタリストの知恵比べこそが現実の資本主義のダイナミズムです。

ここを見逃している点では、カール・マルクスも同じだと言いたくなります。とは言え、限界効用理論や新古典派経済学が前提とするような理想的な資本主義というのは、IT革命後、規模経済(限界生産性逓増)が成り立たない産業が増えつつある今日ですらまだ実現していません(超大国にITベンチャーが集中しているのをどのように考えるべきか???)。ましてや産業革命から世界大戦間までの先進資本主義諸国は、限界効用理論や新古典派の理想からは程遠い歪な資本主義が大手を振るっていたと考えられます。

オーストリア・ハンガリー帝国は例外だったのかも知れません。

※※※わたくしは労働価値説と限界理論が相容れないとは思っておらず、この解決が、このブログのこの先の課題です。


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