日銀金融政策決定会合(4月27日~28日)での追加緩和策見送りを受けて、ドル円は4円程度という急激な円高となりました。翌29日には、米国財務省が、中国だけでなく日本も、自国の通貨を意図的に安く誘導する為替操作への監視する対象とすると発表、ドル円は輪を掛けて円高となりました。木曜日と金曜日の2日間だけで、ドル円は6円前後も円高ということで、これは変化率で較べても、2008年3月のベア・スターンズ危機のときと同程度の衝撃だと言えます。
唐突ながら、熊本の震災のことに触れざるを得ません。地震予知など無意味だという議論が喧しい今日このごろ。ただ、国家予算を投じてでも続けるべきかどうかということについてであれば、もうずいぶん長い間、この方面の国家予算は削られてきているようです。昨夜のNHKサイエンスZEROでは、「南阿蘇村の地すべりが、表層の火山灰だけで起きていたのであれば、阿蘇大橋を吹き飛ばすほどのパワーには至らなかったはず。その下の溶結凝灰岩がクラック(※)や柱状節理(※)に沿って地震で崩れた。地すべりのエネルギーの想定外の大きさは、この表層の下にまで及ぶ根こそぎの崩落にあった」と自らも被災された研究者が説明しておられました。
(※)カルデラ噴火の噴出物が自らの重さと熱で溶解し、その後冷えたために、硬く固まるのだが、その冷え方が急すぎて、割れ目ができる。
阿蘇山のカルデラ噴火は、それによって九州全土がたかだか1週間で出来上がったほどの大量の噴出物を遠方にまでうず高く吹き飛ばすものです。阿蘇=九州を例外あつかいしてはならないことがたいせつで、箱根や穂高も過去に同じような形態の噴火の実績があること、またそのような記録も痕跡もない火山のために、関東甲信越だけでも、クラックや柱状節理に特徴づけられる溶結凝灰岩が多様な地形を作っています。
断層や地質のことを知れば知るほど、巨大地震や火砕流被害などから、日本列島は逃れようがないという思いに至ります。阿蘇山や南海トラフや日本海溝だけが震源ではないからです。
しかし、あきらめないための知識だけでなく、あきらめるための知識を与えてくれるのもまた科学だと言えます。
為替や株価を予想できるわけでもない経済学には、地震予知以上に、国家予算が削減されても致し方無いところでしょう。それでも、最近ではアベノミクス、もう少しさかのぼると、ソ連型社会主義経済や中国型社会主義経済など、壮大な実験が、好むと好まざるとにかかわらず、行われてきたわけで、その結果を冷静に分析することは、わたくしたちに有益な知識を与えてくれるはずです。
ときに、世の中はゴールデンウィークなので、天気予報と道路交通情報が気になるという方が多いことでしょう。このふたつが異なるのは、渋滞のピークの予想は、自分一人が予想を信じてピークを外そうと思っても、似た行動をする人が多いと、外した時間帯がまたピークになっていたということが起こりやすいが、天気予報ではそのようなことは起きない(多くのひとが晴れの日に行動を集中させたからと言って、それが低気圧や前線を呼びこむことは無い・・・人だかりが上昇気流をもたらすとは大袈裟すぎます)。経済分析がややこしい一面として、理論や予想に対して、この人間たちのひとりひとりの、ときに独立した、ときに独立したつもりが独立していない、意思決定がもたらす正や負のフィードバックの存在が大きいことではないでしょうか???
経済学については、財市場と金融市場が混同されやすい(混同されてもしかたがない)事情があります。金融市場、すなわち、通貨(貨幣)の需要と供給を論ずるときに、通貨(貨幣)以外に一般的な経済財(例えば、イワシやキャベツのように豊漁(豊作)なら価格が下落、不漁(凶作)なら価格が上昇するもの)にたとえてよいのかどうか???この簡単そうで難しい問題の答えは、管理通貨(≒不換紙幣?)と兌換紙幣(≒金属通貨?)で違ってくるかどうか???不換紙幣≒管理通貨>兌換紙幣>金属通貨と、あいまいな線の引き方をしたのは、ひとくちに管理通貨と言っても、現在のG7ほか多くの国が採用しているように最初から金などの貴金属との兌換を保証していない通貨もあれば、表向き貴金属との兌換を保証しているが実際にはそのような貴金属を通貨発行高の一部しか支払準備として保管していない通貨もある。また、兌換紙幣>金属通貨という不等号を使いましたが、貨幣改鋳などによる通貨発行益が狙われる場合も考慮しなければなりません。ですから、古今東西で、通貨の管理通貨らしさと商品通貨らしさのブレンドはまちまちであるということになります。
金融緩和を、量的に、しかも異次元に行えば、イワシが豊漁となるのと同じように、値段は下がるだろうと多くの人が予想し、またなかにはその予想はまちがっているけど、間違うひとが多い場合にはいっしょに間違わないと大怪我をするということで、円の通貨価値が下落した。これがアベノミクスによる円安です。
どうやら多くのひとが間違えに気づいたという説明はマイナス金利でも円高?欧州の銀行不安と世界経済の減速だけで説明できるのか??(2016年2月10日)に譲ります。日銀がどんなに必至に民間銀行保有の日本国債を吸い上げても、市中銀行に対して個人や企業が保有している預金の残高(≒マネーサプライ)は殆ど増えないということです。
ここではより深刻な別の側面を。よしんば市中銀行(民間銀行)の預金を増やせたとしても、物価上昇(通貨価値下落)をもたらすことが出来ない。
これについては異論があると思います。恒等式と考えられている、
PQ=MV
(ここでPは物価、Qは取引高、Mは貨幣量、Vは貨幣流通速度)
Vを事後的に、つまり外生変数であるP、Q、Mによって決まる内生変数であるとしてしまえば確かに恒等式ですが、それでは何の意味も持ちません。Vが安定的かそうでないかが、長くケインジアンとマネタリストの争点であったわけです。
争点により焦点を当てるならば、中長期的には、ケインジアンもマネタリストに賛成で、Mを無理矢理増やしても、中長期的には同程度の物価上昇を招くだけで、政策目的であるQ(その代理変数である国民所得など)の上昇を達成することは出来ないとされています。
さて、Mを貨幣量、すなわち貨幣供給と貨幣需要(流動性選好)の合致するところで決まる数量としているわけです(用語の混乱についても、マイナス金利でも円高?欧州の銀行不安と世界経済の減速だけで説明できるのか??をご参照ください)が、貨幣に対する需要(流動性選好)ってそもそもいったい何でしょうか?
日常と非日常とを問わず「おカネが欲しい!」「無担保でおカネを貸して欲しい!」というときのおカネは、たぶん99%は、所得や富や(経済)財が欲しくてそのために費消するためのおカネが欲しいのであって、最終目的物であるお米とか電化製品とかを最初から無料でもらいたいというのと同じ意味です。残り1%は、週末の冠婚葬祭のための祝儀不祝儀だったり、外国為替証拠金取引の証拠金入金だったりかも知れません。
貨幣に対する需要を流動性選好と呼ぶとき、「お金が欲しい」と発話する意味合いから「物欲」を取り除くことで、支払手段としての貨幣の性格がはじめて浮かび上がります。
ありとあらゆる経済財のなかから、貨幣というものを特別扱いするのであれば、①売買契約における買主にとって、②金銭消費貸借契約における借主にとって、③雇用契約における雇主にとって、物々交換や代物弁済や差金決済(≒企業間信用)では埒が明かなくて、どうしても強制通用力があったり一般社会が交換手段として認めている貨幣が必要で、そのためには当面不要の手持ちの財産を処分(売却または質入れなど)をしても構わない、と考えるのが流動性選好です。
わたくしは、上記①>②>③で状況の差こそあれ、インターネットが普及するなどの高度情報化社会においては、世の中全体が一個ないしは数個のポータルを通じて売りたいもの買いたいもののスペックと価格という情報がインデックス化されている巨大なフリーマーケットになっているので、そうでなかった時代ほど、商取引の媒(なかだち)として貨幣が果たさなければならない役割は激減していると見ます。つまり、物々交換の時代に逆戻りしても、欲しいものと要らないものの交換費用がたいして嵩まないということです。
まだ話は終わっていませんが、賢明な読者のみなさんは、日本やEUのような社会では、マイナス金利を極(きわ)みとした金融緩和が空転している理由がおわかりいただけるのではないでしょうか?
PQ=MV
(Pは物価、Qは取引高、Mは貨幣量、Vは貨幣流通速度)
に戻ると、日本やEUで起きていることは、Mを引き上げても、PもQもあがらないというケインジアンVSマネタリストの論点とは違う次元のことです。
Mが引き上げられたぶん、Vが反比例的に減少するということでしょうか???
そんなことはあってはならないでしょう。Vの安定は強すぎる仮説だとしても、Vが有意に減少するならば、単位時間あたりの預金口座の入出金頻度が減少する⇒現預金の占有者の交代頻度が減少する⇒入出金の時間差の対策のためのバッファー、、、これこそが取引需要としての流動性選好ですが、これが減少するので、Mは減少(銀行貸出を返済)するはずだからです。
答えは、この恒等式が間違っている(右辺と左辺が等しくない)わけではないが、PQが名目取引量を表してはいない(物々交換、代物弁済、差金決済、現物支給においてはQに乗ぜられるPはゼロだが、これはあたりまえのこととして、物価がゼロに下落したわけではない)ということです。
・・・・・・これも、あきらめるための知識です。大きくて非効率な政府を目指す財政政策は論外として、金融緩和も国民の生活など助けてはくれない。何もかわらない。という性質の社会に生きていることを知れば、自らの技術を高めて仕事を愛する、願わくば仕事と相思相愛になる、そういう堅実な努力以外に生きる道はない。カネの生る木はないという覚悟です。
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