2016年2月10日水曜日

マイナス金利でも円高?欧州の銀行不安と世界経済の減速だけで説明できるのか??

マイナス「金利」とマイナス「利回り」

黒田日銀総裁がマイナス金利を発表したのが1/29(金)。ここでのマイナス金利は市中銀行の日銀預け金の一部に手数料を課すという話。日銀預け金の「金利」は、言わば、1日物金利です。一週間と少し経過し、10年物日本国債の「利回り」までマイナスになってしまいました。

1日物金利をマイナスにすることは銀行間の資金過不足の決済に使われる中央銀行預け金に限れば技術的に難しくなく、ユーロ圏やスイスなどで前例があることは、最近良く知られています。

《マイナス金利は嫌なので、銀行間の資金化不足を、現金輸送車で!》、というわけには参りません。現実的物理的に困難、というか、そのほうがコストが掛かります。

どうでも良い話ですが、わたくしは22歳から23歳のころ、しょっちゅう現金輸送車に載せて、もとい、乗せてもらっていました。

いっぽう、10年物の国債の利回りがマイナスになるというのは、国債という有価証券を持っている人が、毎年(※)受け取る利息の(ざっくり)合計金額よりも、償還損(※※)のほうが大きくなったという現象です。

(※)実際には半年ごとに・・・・・・

(※※)満期保有を前提として、額面をいくら上回って購入してしまったか?


日銀による国債購入は有益ではないが有害でもない???

現時点でのわたくしの仮説としては、

①合理的な理由で、国債をマイナス利回りで購入することができるのは、日銀だけである。

と考えています。裏返すと、

②「マイナス利回りなら手放しても構わない」というのが、日銀預け金への手数料課金を片目で睨みつつ、引き受けたり応札したりする国債を手放すかどうか判断する市中銀行の腹のうちである

ということになります。

②の理屈は、国債売却益が市中銀行にとっての割増退職金(一時的な慰労金)であるという2015年12月29日のブログで解説しました。

①の理屈も、世界の中央銀行制度の歴史のなかでも他に例を見ない巨額(対GDP比でも対発行済国債総残高でも)に膨れ上がった日銀保有国債の時価評価は、日銀自らの購入行動によって、マイナス利回りによって洗い替えされます。マイナス「金利」からは手数料収入が生まれ、マイナス「利回り」からは保有国債の評価益が生まれます。相場操縦とは言いません。日銀は実は国内上場会社のなかでもダントツに好決算を迎えられることは確かです。

いまでは、先進諸国を見渡しても、過去と較べても、最高評価の値段が付けられている国債が、現在もっとも財政状況の悪い政府によって発行されたものであるというのは、とんでもなく皮肉な現象であることを超えて、実感に合わなくはないでしょうか???

実感に合わないこと(※)を、すっきりと説明することこそが経済学の役目です。

リカードの比較生産費説が一例。生産要素の移動が行われない二国間においては、交易対象の二財とも絶対優位の国であってにせよ同国内で比較劣位の財については生産を取りやめて(絶対劣位だが)比較優位の他国から輸入したほうがお互いにメリットがある、と。


内生的貨幣供給論

「量的緩和は円安には貢献したが貨幣供給には貢献していない」という話は、わたくしのブログでもしばしば取り上げて参りました。いまのところ、マイナス金利も同様どころか、円安も一時的であったということになります。このことを、欧州の銀行不安と世界経済の減速(原油安、中東問題、中国・北朝鮮など東アジア問題)で説明しようとするブログやニュースは吐いて捨てるほどあります。へそ曲がりのわたくしのブログでは、バズーカの形や大きさにかかわらず、これまでどおり内生的貨幣供給論で説明可能だというのが結論です。

「内生的貨幣供給論」は決して難しい考え方ではないのですが、はっきり言って、言い回しが紛らわしいです。「内生的貨幣供給論」が非現実的だと批判する伝統的かつ正統派の金融理論のなかに、その紛らわしさの原因があると考えました。

もっとも、伝統的かつ正統派の金融理論が自らのそれを「外生的」と呼んでいるはずもなく、暗黙の了解として、「貨幣供給」(Money supply)が与件として外生的に決定可能だとしているわけです。つまり、

①世の中には金利さえ低ければいくらでもおカネを借りて事業を起こしたいというひとがいるものだ。なので、
②貨幣の供給量(市中銀行の預金残高)は銀行の貸出残高によって決定される。
③ここで、市中銀行は、もともと非金融民間部門から預かった預金(本源的預金)を《元手》に、中央銀行の支払準備率(≦100%)の逆数(※)まで目一杯貸出をするものである。

(※)本源的預金を初項とし(1-支払準備率)を公比とする無限級数

上記③で、中央銀行(日本銀行)の支払準備率が外生変数だ(がそれが均衡数量としての貨幣供給を独立して一意的に決定できるというは一般的には言えない)というところから、「外生的」貨幣供給呼ばわりする理由なのでしょう。

とは言え、「支払準備率」を下げたところで、市中銀行の預金は増えない、という考え方を「内生的」貨幣供給と呼ぶのもまたピンと来ません。どこから内生しているのかというと需要側からなのでそれをなぜ供給というのか素朴な疑問が湧いて来ませんか??>

このような用語の使われ方の原因は、

「モノやサービスであれば、需要と供給が価格による調節で一致したり(ワルラス均衡)、どちらか低いほうに引きづられて一致したりして(マーシャル均衡)、均衡数量となる(それは需要数量でもあり供給数量でもある)という言い方ができる」

のに対して、

「おカネについては、何故か(※)貨幣需要(Money Demand)という言い方をせずに、流動性選好(Liquidity Preference)という言い方をして、貨幣供給(Money Supply)という言い方が、需要と均衡するまえの数量を意味することもあれば、需要と均衡したあとの結果としての数量をあらわすこともあり、ひとつの用語が二通りの意味を持つゆえの紛らわしさにある。」

というのがわたくしの推測です。

それが経済学の伝統なのだからしかたがないと意識するしないにかかわらず、高校レベルの社会科でも、紛らわしい用語を経由して、前提の怪しい乗数理論を教えられているというのは、経済損失です。

高校時代に化学で規定量という用語に触れてなんでこんな言い方するんだろうなと思った記憶があって、いまウィキペディアを調べたら、やはり今日の学習指導要領ではもう使われなくなっているようです。

確かに、内生的貨幣供給論が批判対象とする外生的貨幣供給論(正統派の金融論)では、

①借入需要は金利の上がり下がりに応じて貸出能力に一致するか、または、(常に、借入需要>貸出能力なのであるから)金利によって調整不能だとしても貸出能力に一致する。

よって、
②金利という「おカネの価格」の調整機能が働くと働かざるとにかかわらず、外生的に所与とされる貸出能力(によって一意的に決定される貨幣供給)と一致する。

だから、
③貨幣供給という用語のダブルミーニングを気にする必要はないのだ、

ということになります。経済学史をちゃんと勉強せずに想像をこれ以上ふくらませるのは良くないですけど、上記(※)について、流動性選好は取引需要(国民所得に比例?)と投機的需要(金利に反比例?)の足し算だとして、貨幣需要という言い方が経済学では用いられないのは、取引需要(=借入需要?)だけを意味するのかどうかあいまいだとの配慮があったからなのかも知れません。

などなどという愚痴を聞いてもらったうえで、もういちど、《日銀による国債購入は有益ではないが有害でもない》というブログに目を通していただくと、また見えてくる景色が変わってくると思います。
日本銀行のブタ積み当座預金には意味があるのか?

2016年1月24日日曜日

今よりマシな日本社会をどう作れるか

このような良書が、ジュンク堂書店やアマゾンでは手にはいらないのは残念でなりません。

塩沢由典先生が、アベノミスクの初期段階とも言える2013年5月に書かれた本です(発行・発売=編集グループSURE、2013年7月15日初版第一刷発行)。

おそらくは、車座みたいな雰囲気のなかで、経済学を専門とはされていないものの、世の中の森羅万象について感度の高い先生の知り合いを相手に、経済学の切り口からアベノミクスを中心とする2013年初頭の経済情勢、もう少し翻っては、それまでの【長期停滞】(いわゆる失われた20年)について、口語調で語られています。先生の著書のなかではとっつきやすいものです。

しかし、、、、、、

扱われているテーマはとても重く難儀なものです。語り口が優しいからと言って、容易に理解できるわけではありません。わたくしも付箋を着けながら慎重に繰り返し読んでみました。

【塩沢由典先生と竹中平蔵先生】

驚きました。ご自身では否定されているものの、世間では市場原理主義や新自由主義の権化というレッテルを貼られている竹中平蔵先生とそれほど意見が異ならないという箇所がいっぱい出てきます。

塩沢由典先生が、伝統的な経済学に対して批判的な立場で一貫して研究活動をされてきたこと、おそらくまったく、政官界との距離感は異なることに鑑みれば、新鮮な驚きです。

ところで、竹中平蔵先生が、どんなに政官界に近いとは言え、氏が繰り返し主張する「正社員という制度そのものを廃止すべき」という雇用のあり方の見直しは、氏が一番近い自民党はもちろんのこと、労働組合を捨てきれるはずのない民主党、、、(中略)、、、共産党まで、日本の既成政党でひとつとして政策に掲げているところはありません。

せいぜい、同一労働同一賃金までであって、これ以上に踏み込んだ既得権打破を訴える政党は、ひとつもないのです。

さて、以上をプロローグとして、「今よりマシな日本社会をどう作れるか」の論点をわたくしなりに5つにまとめると、

①アベノミクスは安倍のミックスである
②1991年以降の長期停滞の要因分析
③中国という十数倍もの「賃金格差」かつまたは「労働生産性」を持つ国が日本の(自由)貿易の相手方になるかぎり、日本の中間層の賃金を下げない経済政策がありうるのか?
④高福祉高負担でも経済成長を可能としたスウェーデン・パラドックスは日本でも応用可能なのか?
⑤日本でアメリカ(のシリコンバレーやイスラエルのヘルツリア)のようなベンチャー企業群、ベンチャーキャピタリストが育てられるのか?

①は、第一期アベノミクスの最初の2本の矢「金融緩和」と「財政出動」が一貫性のある経済理論からは意味不明であるという話。まず「金融緩和」についての意味と無意味については、このブログで再三触れてきたところです。つぎに「財政出動」については開放経済かつ変動相場制では(財政出動による有効需要の増加は純輸出の減少で相殺されるので)無意味とするマンデルフレミングモデルについて触れられています。

わたくしはマンデルフレミングモデルのような中立命題っぽい議論が個人的には趣味なのですが、これが現実にいまの国際貿易や国際金融のなかで成り立つかどうかは深く議論をしなければならないでしょう。ここでは深掘りされておらず、むしろ②以下の論点こそ、この著書の真骨頂だと思っています。

②では塩沢由典さんは5つの要因を列挙しておられます。わたくしがいちばん注目したのは、日本経済いや日本社会がキャッチアップ(さえすれば成長できていた)ステージからトップランナー(にならなくては成長を続けられない)ステージに変質したという指摘です。言い換えれば「成功の罠」の問題です【p35~p37】。

なんとなく世の中全体としてバブルの崩壊(バブルを作ってしまったこと、かつまたは弾けさせてしまったこと)とその後の対処の悪さが長期停滞のダントツの原因だと思われているところがあるなかで、この指摘は目から鱗です。

【にんにくも石炭も掘れないわけではないけれど・・・・・・】

さて、いよいよ核心部分の③と④について。。。。。。

いまでも近所のスーパーに行くと、国産のにんにくが1個100円で、その隣に中国産のが10個100円で売られていたりします。

2013年に塩沢先生が同著を上梓されたころと、中国経済が崩落しはじめている現在とでは、にんにく以外の財やサービスの価格差は多かれ少なかれ縮んできていると思います。

とは言え、保護貿易や鎖国という禁じ手以外の方法で、農業やホワイトカラー中間層など、多かれ少なかれ既得権を有する労働者の賃金を守る、または増やす、なんてことができるのでしょうか?

塩沢先生はこの本の真骨頂である「サービス経済化」を提唱する【p68~】のなかで、

「日本の農業人口が60%(1920年代)から3%(2012年)に落ちたのは、農業の生産性が落ちたからではなく、むしろ非常に大きく向上したからだ。」

「製造業でも同じことが起こりつつある。。。が、日本の生産性(の向上)/賃金の高さ<<中国(や韓国)の生産性(の向上)/賃金の低さ」

「鉱(山)業の従事者の減少は、別の論理。鉱山が枯渇したから。」

サービス業以外の雇用の減少について、農業と製造業は理由が似ている(が製造業については国際競争にさらされている)。鉱業は理由が異なる。という整理です。

賃金と労働生産性の(A)時系列での変化と(B)横断面での絶対水準の国際比較が入り混じっていてやや複雑です。

【どうして賃金を上げないのか?】

塩沢由典先生は、p105で、「この20年間、日本の経済は確かに低迷しているけれど、私は労働生産性が落ちたとはけっして思っていません。むしろ上がっている。ですから、それに相応するだけ、賃金を上げるべきだし、それを上げないのは、経営者が逃げているのだと思います。」と述べます。

これは上記(A)だけからは導き出せますが、(B)との両立は難しいと思われます。

p117では「鄧小平が出てきて、改革開放ということを言い出すまでは、大々的に海外との取引をすることは少なかった。ところが突然どんどん貿易を自由化してゆく。。。。。。世界経済に占める中国という存在が大きく変わった。中国と日本では、賃金が平均で何十倍もちがっていたし、都市部の給料だって、20倍くらいちがった。いくら粗雑で仕事の仕方が悪いと言っても、文明を持った国民なんだから、それだけ賃金が違えば当然競争力は持てる」と。

ここは上記(B)から帰結する話です。

わたくしの考えは、、、、、、新自由主義と言われようと言われまいと、(A)より(B)を優先せずに、民間企業が国際競争を勝ち抜くのは不可能であるということ。ただし、ただいま多くの日系企業が中国現地生産の出口を模索するという局面にあり、実は出口がない(「工場もノウハウも全部置いてゆけ。」と命ぜられ換金できずにいる)という、標準的な資本主義国家ではありえないような理不尽に直面している経営者が多いこと。ゆえに、統計上の賃金と生産性だけから国際分業を論じるほど現実は簡単ではない(よって日本も捨てたものではない)ということを指摘しておきたいと思います。

【スウェーデン・パラドックス】
④について。塩沢由典先生は「道州制でいろいろ試してみてもよい」【p111~】で、
「ミュルダール夫妻がかいた本が基礎となって、スウェーデンの社会民主党の政策は形作られた。それが受け入れられて、スウェーデンの戦後の体制が生まれてきた。こういうのは、やはり、スウェーデンが今でも人口900万人程度の規模だから可能だったんでしょう。」

これは、わたくしの記憶が間違っていなければ、竹中平蔵先生がNHKの「日本の、これから」で年金問題を討論したときにまったく同じことを指摘されていたと思います。

人口がある程度以上大きい中央集権国家で国民負担率の高い制度を実現すると何となく動脈硬化を起こしそうなイメージはあります。しかし、塩沢由典先生が別の箇所【p92~】で述べられているように、平均的な日本人が抱いている《高福祉国家=労働者の既得権が高い制度》という思い込みを排除することこそスウェーデン・パラドックスを解き明かす鍵だと思うのです。

つまり、

「日本の場合には、企業はいったん正規雇用をすると、基本的には定年退職まで解雇しないことになっていますね。そうすると、衰退産業は、無理しても雇用を維持しなきゃいけない。。。。。。日本の終身雇用は、ある意味で社会保障の一部でした。。。。。。スウェーデンの場合、、、、、、、例えばある企業を解雇されたら二年くらいは大学に入り直すことができる。基本的には学費と生活費を出してくれる。。。。。。」

是非、七転び八起きブログの読者のみなさまには塩沢由典先生の「今よりマシな日本社会をどう作れるか」を手にとって読んでいただきたいので、これ以上の引用は避けますが、やはりわたくしはこの雇用慣行の抜本見直しを伴うセーフティネットの充実が日本の閉塞感を打破する鍵であり、1億人を超える社会でも実現不能ではないと考えています。

しかし、繰り返しになりますが、正社員制度を廃止しようという政治家はひとりも居ません。

最後の⑤のベンチャーが育たない理由も、半分は上記④の病巣で説明できると思います。ただし、それだけで、日本にグーグルやフェイスブックやアップルのような企業がどんどん産まれ育つとか、シャープや東芝がインテルみたいに生まれ変わるなどとは思っていません。正月元旦のテレビ朝日朝まで生テレビで自民党の山本一太先生が「日本にはシリコンバレーの真似は出来ない」と発言していましたが、誰も反論していませんでした。