2023年7月3日月曜日

ジョージ・ソロスとその師匠カール・ポパー∽反証主義と弁証法の近親憎悪

 マルクスとエンゲルスの迷言集

 ジョージ・ソロスは自らが創設した協会(財団)に「開かれた社会」(オープン・ソサエティ)と命名したのは、ジョージ・ソロスがロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)その薫陶を受けたカール・ポパーの代表的な著作「開かれた社会とその敵」に負っています。

 「開かれた社会とその敵」の「その敵」とは、まず前半ではプラトン、そして後半ではヘーゲル、マルクス、つまり弁証法とヒストリシズムです。ヒストリシズムは日本語にどう訳すれば良いのか難しいところですが、これは決定論的な歴史主義とでも言ったところです。カール・ポパーは、プラトンに見られる全体主義的なものの考え方へと同様、決定論的歴史主義へも徹底的な批判を展開します。

 注目すべきは、カール・ポパーとしては、決定論的歴史主義をあたかも裏付けているような弁証法まで気に入らないとしているところです。

 弁証法については、このブログで、何故か訪問者数がベストテンにのぼる毛色の変わった弁証法入門コンテンツもあるので、かなり悪趣味だと自戒しますが、参考までにリンクを貼らせてください。

 ベートーヴェンとヘーゲルが同い年だったという浅田彰氏の指摘

 マルクスやエンゲルスの特徴をヘーゲルとの対比で申し上げると、弁証法と唯物論を結びつけることで、特に、資本主義社会の内部崩壊は必然、社会主義や共産主義への相転移(≒革命)も必然と言い切ってしまっているところです。唯物論が間違っているとは言いませんが、観念論VS唯物論は哲学上決着がないアジェンダなのですから、一方的に観念論が間違いで唯物論が正しいと言い切ることが間違いなのです。

 このようにマルクスというのは「経済学者」(?)、社会思想家としてはなかなか問題の人物ですが、コピーライターやアジテーターとしては一流です。

 「すべてを疑え」

「宗教はアヘンだ」

 とくにこのふたつの警句が私のお気に入りです。

 前者は、本来の弁証法の元祖とも言えるソクラテスの「無知の知」を彷彿とさせます。カール・ポパーは、(プラトンとは異なり)知的謙虚さという観点からも、そしてカール・ポパーが科学的命題と似非科学的命題の線引きとして提案した反証可能性というものの考え方とも馴染みます。一方、マルクス自身は、後者の警句とも関連しますが、自分の考え方とわずかでも差異がある思想家や革命家に対してはリベラリスト大同小異とはせず、歯に衣着せぬ批判を展開しました。そして後者については、マルクス主義そのものが宗教に成り下がってしまった。布教への執念と異教徒に対するよりもむしろ宗教内の異端の派閥や宗旨に対する攻撃のほうが激しい点も、一神教のインターナショナルな宗教と似ています。内ゲバで殺された人のほうが宗教戦争で殺された人よりも多いのだそうです。

 「マルクス主義者にとってマルクス主義はアヘンだ」と皮肉ったのは、経済学者サミュエルソンです。

 マルクスと一枚岩だと思われがちなエンゲルスは、イギリスの工場主のお坊ちゃんで、マルクスに心酔するわけです。エンゲルスの名言(?)集から。

 「サルとヒト、その群を分けるのは、労働である」

「ひとつのものにとっての善は、他のものにとって悪である。」

「愛情に基づくものが、道徳的な婚姻ならば、愛情が続くものだけが、道徳的な婚姻である」

 最後のだけは、広末涼子さんあたりに聞かせてあげたい気もしますが、総じて、意味不明で論評に値しないと言わざるを得ません。そんなエンゲルスが、マルクスの死後に書いた大作に、いま話題にしている弁証法を題材とした「自然の弁証法」という書物があります。

 反証主義と弁証法の近隣憎悪

 弁証法とは何を指すかというのは、哲学者によってまちまちなようで、やはり、マルクス出現以降は、どうしても、

 「資本主義は自らが孕む矛盾によって自己崩壊し必然的に社会主義その先共産主義へと相転移する。」

 「これは科学的で論理的な結論である。」

 このような決めつけこそが現代的で狭義の弁証法だということについついなってしまっていたのではないかと???

 マルクスを妄信し溺愛した心優しいお金持ちエンゲルスは、マルクスの死後に、マルクス理論の普遍性と正当性を担保したいという一心で(←たぶん)「自然の弁証法」という大著に取り掛かります。残念ながら未完成で、エンゲルスの生前には出版に至らなかったのですが、これは本末転倒の問題作ではないかと。

 「自然の弁証法」の「自然」とは自然科学の自然です。曰く、社会科学においては(いわゆる文系の諸学問を社会科学と呼ぶこと自体が暗にマルクス理論の影響を受けまくっているのですが)マルクスのおかげで弁証法の適用と唯物論との結びつけによって社会主義(へと必然的に移行するという予想が)「空想から科学へ」と真価した。実はこの弁証法というのは人類社会に対してだけでなくもっと普遍的に自然界の分析にも応用が利くものであると。

 私は、この点で、カール・ポパーが「開かれた社会とその敵」でヘーゲルとマルクスとそれらの弁証法を批判したやり方ほど手厳しくないのですが、弁証法は、自然科学の分野では、もともと、結構役立っていて、実は、カール・ポパーが、イギリス経験論へのアンチテーゼとして唱えた「反証主義」とかなり近しいのではないか?

 研究不足の門外漢が言うとお叱りをうけることを承知で言わせてもらうと、カール・ポパーにとっては、マルクスは(人道主義の面の皮を剥がせば最悪の全体主義に他ならない)社会主義社会を煽ったということで、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということで、弁証法をコテンパンにやっつけたかったというところがあるのではないかとまで考えています。

 ジョージ・ソロスの「再帰性」はかなり自然の弁証法だ!?

 そして、カール・ポパーのことを誰よりも師として仰いだジョージ・ソロスも、もしかするとそのことに気が付いていたのではないかと。幾分かはカール・ポパーの哲学を微修正しながら取り入れたと考えると、ジョージ・ソロスの投資家としてのアプローチ、就中、ジョージ・ソロスの「再帰性」という考え方が頗る弁証法と無矛盾であることにも納得がいきます。

 オープン・ソサエティ、開かれた社会を志向することは、政治においてはより小さい政府、規制の少ない市場経済、究極は国境のない世界という理想像が見えてきます。ところが、ジョージ・ソロスは、本音こそわかりませんが、「再帰性」という独自の哲学、これはもちろん彼の市場哲学を包含しているわけで、これを説くときに、もともとの新古典派経済学というか、カール・ポパーと同時代のオーストリア学派の経済学者でリバタリアンと呼ばれる人たちの、市場に任せるべきだという考え方を全面的に肯定すべきではないのだ。人間はその自らが属する社会を観察し認識し反応する。社会を、労働力を含む商品とその相場という側面で見ると、価格を見て高いか安いか認識し、買うか売るか決める、その行為がまた市況へとフィードバックされて云々という動き、ジョージ・ソロスが「再帰性」という表現するのはここであって、実にこれは複雑系なわけで、放っておけば最適解に導かれるという綺麗なものではないというわけです。

 ちなみに、現在の新古典派の正統派経済学者のちゃんとした人たちの間で、自由な市場に放っておけば市場経済参加者最大多数の最大幸福が持たされるなどと言っているひとは居ません。

 複雑系にはレベルがあります。天気予報は技術の進歩で正確さは日進月歩ですが、線状降水帯を当てるのはまだまだ難しいとされています。これは気象という現象が複雑系だからです。

 これに比べると、交通渋滞はそこまで複雑に思えないので、予想がしやすそうですが、その予想を見て、例えばゴールデンウイークの何日目に帰省から戻ろうと考えていた人が曜日をずらすとかいうフィードバックが起きてしまい、その効果、さらにはそれによる予想の変化、そして再フィードバックを考慮して、となってくると、もとの複雑さは気象現象ほどではなかったのに、不可知性という点では、天気予報よりも高レベルの複雑系となってしまうというわけです。

 ジョージ・ソロスが「再帰性」という概念で示した市場の歪みと投資手法というのはまさにそのような複雑系としての市場、市場メカニズムは完ぺきではないという洞察を含んでいると見ます。

 しかし、ジョージ・ソロスの外国為替相場での巧みさのコツがこの再帰性の認識だけなのかというと、それはかなり違うのではないか、と私は考えています。

 カリスマ化した一流シェフが、コンビニチェーンと組んで企画商品をプロモートすることはありますが、門外不出のタレの製法まで教えることはありません。ソロス本を読んでも、家の台所ではタレは作らせてもらえないのでしょう。

 現代のルネサンス男、カール・ポパー

 カール・ポパーは、バートランド・ラッセルと並ぶ20世紀最大の知の巨人だという人が大勢います。その活動範囲は、哲学にとどまらず、数学(確率論を含む)、物理学、政治学、経済学、心理学と多岐に及びます。面白いのは、カール・ポパーが自ら編み出した「反証主義」を進化論に当てはめている部分です。ご存じのように、生物の種の進化の原動力は、突然変異体の出現です。多くの場合それは奇形だとして長生きできなかったりするのでしょうが、たまには、突然変異体のほうが環境に適合する場合があり、同じような突然変異体の濃度がある閾値を超えるようなことがあれば、新しい亜種や種が成立して、場合によってはコピーエラーがなかった伝統的な種を片隅に追いやるという場合もあるというわけです。カール・ポパーは、突然変異体の出現を新しい仮設と看做し、その反証に耐えうるかどうかの対象が伝統的な種である。進化とはまさにしばしば現れる突然変異という反証の機会(反証されるかどうかは場合による)を経た試行錯誤の過程であり漸進的なピースミルワークなのだと言います。

 最後のところ、漸進的なピースミルワークなのか、革命的な相転移なのか、これは何百万年、何千万年という気の遠くなるような時間軸で見ないと判断が出来ないところですが、もうお分かりいただいているように、進化論的認識論に限っては、反証主義と弁証法との間に大きな違いはないように思えます。

 最も重大な問題は、種の進化は進歩なのか?社会構造(マルクスやエンゲルスが言うところの生産関係)の変化は人類の進歩なのか?というところです。視聴者の皆さんは、後者の問いに対する答えが否であることは良くご存じです。前者についても、昔は、人類は万物の霊長であるなどと言われていましたが、5億年以上も前から、ひたすら正確な遺伝子のコピーを行い続け、こんにちも元気に、ひ弱な人類と共存しているような決着のつかない戦いを続けているような古細菌やウィルス(←生命と看做されるかどうかについては議論あり)に思いを馳せれば、進化しまくった人類が偉くて、進化を一切拒否した微生物が劣っている、後者は人類の奴隷として医薬品や発酵食品づくりに役立つか根絶すべき病原体かのどちらかだという見方はもう古いと言わざるを得ません。

 リベラルアーツは反証主義と弁証法をアウフヘーベン(止揚)する!?

 カール・ポパーは、開かれた社会と小さな政府と試行錯誤過程による(劇的革命ではなく)ピースミルワークによって社会を改良していくべきだという自由民主主義者ですが、若いころにはマルクス、エンゲルスにどっぷり嵌った。これは決して無駄ではなく、以降、哲学史どころか人類史における全体主義的な思考・志向が何に由来するのかについて、より鮮やかに説くうえで、役立っていると自己評価します。

 カール・ポパーが語られるときに、ほとんど取り上げられないのが、その共産主義活動の若い時期に、音楽家を目指して、クラシック音楽史で言えば、現代音楽の最重要作曲家のひとりであることが間違いないシェーンベルクの「私的演奏協会」に入会していたことです(注1)。

 このころのカール・ポパーの発言によれば、彼のお気に入りの作曲家は、バッハであり、モーツァルトであり、はたまたシューベルトであった。いっぽう嫌いな作曲家はワーグナーとリヒャルト・シュトラウスであったそうです。ドイツ語圏の作曲家以外にはどうも言及がなかったようなので、ドビュッシーやヴェルディのような作曲家に対してはどう思っていたのかは気になります。

 カール・ポパーは、ウィーン版民青と同様、熱しやすく冷めやすいと言ったところで、このシェーンベルクのインナーサークルとも決別します。音楽家としての将来は(哲学者、数学者、心理学者などと比べ)ないと考えた点もあるでしょうが、重要なのは、そのシェーンベルクの私的演奏協会の「命題」というのがあったそうで、

     いかにしてわれわれはワーグナーにとって代わることが出来るか?

    いかにしてわれわれはわれわれ自身のうちにおけるワーグナーの残滓を捨て去ることができるか?

    どのようにしたらわれわれは万人に先んじ続けることができ、また絶えずわれわれ自身の先を越すことさえできるか?

 ぶっちゃけ、このような囚われ方にあきれてカール・ポパーはシェーンベルクの(取り巻きたちの)もとを去ったと言われていますが、①~③は、音楽家として生活の足場を作る、音楽史に名声を残す、音楽にも弁証法的な進歩主義が当てはまると考えるのなら、まったく理解できないことではないのかも知れません。果たしてどうでしょうか???

 カール・ポパーが最も尊敬する音楽家であるバッハについてですが、YouTubeに、バッハの代表的な楽曲のさわりの部分を、年代順に、10歳代から60歳代まで並べて流してくれているとてもありがたい動画があがっていました。これを聴いて(視て)驚いたのですが、天才と言われている大抵の芸術家は、確かに早熟だったかも知れないが、10歳前後の作品には「才能の片鱗を感じるが、まだまだ荒らしく、完成度は云々」などと職業評論家に評され、最晩年の作品となると「多少枯れてはいるが円熟の域に達しており云々」というおきまりのパターンが普通なのに対して、バッハの場合というのは、これは被験者の選定が難しいですが、クラシック音楽がある程度好きだが、超バッハおたくではない、バッハの音楽については耳にしたことがあっても、楽曲名まで当てられない、ましてや作曲年代については知識がない程度の被験者をなるべく集めてきて、サンプル音源を、若いほうから順番に並べてくださいという問題を出したとしましょう。たぶん、被験者グループに間違って潜り込んだ作品番号暗記している級のバッハマニア以外は誰も正解はできないことでしょう。

 これはすごいことで、野球で言うと、高校卒のルーキー投手がいきなりプロで二けた勝利をあげた。二年目のジンクスも克服した。その後、あれよあれよと毎年10勝以上して、二十歳代と三十代を通じてたいしたスランプもなく、40前後でもうそろそろほかのことがしたいからという理由であっさり引退みたいな話です。

 バッハは作曲を始めた子供のころから成長も後退もしていない!

 音楽ではありませんが、絵画で言えば、例えば日本でゴッホ展やピカソ展があったりすると、各展示室には、作品年代ごとの作品が整然と置かれ、それぞれの年代の特徴や背景などが解説されているのが普通です。多くの芸術家は、その足跡をたどることによって、成長や変化、それはときには漸進的だが、ときには(エンゲルスの言う「量的変化が質的変化を」みたく)非連続的というか革命的なものとして見て取れるものです。これに対して、バッハの音楽は、生まれたときから、もはや進化の余地もないかわりに退化のきざしもないすべて百点満点の答案でぎっしり満たされているというわけです。

 確かに、先述のシェーンベルグは音楽史にはっきりと名を刻む現代作曲家です。かれの功績は音楽理論的に言うと、十二音法を編み出したこととされています。このおかげで、われわれ現代人は、映画やテレビのドラマや報道番組で、歌として聞いたらまったく旋律的でないが無意識のうちに情景に引き込まれる新しい音楽を享受できています。しかし、この十二音という音楽というか旋律はすでにバッハはやってくれていたのです。

 唐突に結論。歴史を学ぶことも優れた芸術作品に触れることも良いのですが、これら、つまり自然科学以外の人間の営みに対して、弁証法的な進歩史観を持ち込むのはナンセンスであり、さらに言えば危険であるということです。

 哲学についても音楽学についても門外漢である私の不正確な説明をここまで許してくださりありがとうございます。たまたま、カール・ポパーにとっては、進歩主義的な歴史観(が人類を救うのではないか)、進歩主義的な音楽史観(がアンチセミティックなリヒャルト・ワーグナーをぎゃふんと言わせられるのではないか)、という熱病に一瞬侵されつつもそれを克服したとこから、彼の反証主義と開かれた社会への志向がはぐくまれていったことに言及がしたかったのであります。

 (注1)       数学や物理学と音楽など芸術とはずいぶんかけ離れているように思ってしまいますが、これは現在のわれわれ日本人が、理系>>文系>>>芸術系という分類に毒されているからかも知れません。古典古代のリベラルアーツ(≒大学の教養学科)は、中世ヨーロッパでは7教科からなっていて、さらにこのうち、4科として分類されたのが、天文学、算術、幾何、音楽(楽理)だったのです。音楽が、3学(修辞学、文法、論理学)のほうに行かなかったことに注目です。三平方の定理で知られるピタゴラス(教団)が、数学(≒算術+幾何)と音楽(音階理論)の二刀流であったこと、さらには惑星の並び方と音階の親和性について説いたこと

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