2008年12月26日金曜日

チャリティ・オペラ・コンサート直前情報【其の四】

まずは読者の皆さまにご報告と御礼です。来たる12/28(日)フェニックス証券主催チャリティ・オペラ・コンサートのチケットは完売=売り止めとなりました。多くの方々に趣旨ご賛同いただきご協力をいただき、本当にありがとうございました。

さて、直前情報【其の四】は、引き続き「第一部 中高生と中高年のためのオペラ入門(!?)」を続けます。「カヴァレリア・ルスティカーナ」「愛の妙薬」「蝶々夫人」に続きまして、本日は「イル・トロヴァトーレ」です。

イタリアオペラにおける作曲家ヴェルディは、交響曲におけるベートーヴェンと同じ存在だなどと、その偉大さが称えられている大家が遂に登場。続いて取り上げる「ドン・カルロ」同様、吟遊詩人という意味の当作品は、ヴェルディの代表的なオペラです。実はこの「トロヴァトーレ」、私にとっては数少ない「チケットを買って観に行った」オペラのひとつです(通常、私はYouTubeでオペラの“勉強”をしており、殆ど金を掛けておりません)。そんなケチな私が、特段事前準備をせずに、日本語字幕を追いかけながら観たオペラの結末は、「何じゃこりゃ!?あり得ねぇ。ふざけるな!」という感想でした。しかしそれはトロヴァトーレやヴェルディを嫌いになることを全く意味せず、支離滅裂の物語の是非を超えて貫かれる全く隙のない音楽の作りと美しさで、むしろヴェルディの才気に魅了されるキッカケとなったのでした。

支離滅裂な物語を簡潔にお話するのは私の能力を超えております。大変素晴らしいサイトを発見しましたので、お時間のあるかたは是非こちらもご参考になさってください(12/28【日】の演奏会の後でもよろしいかと存じます)。

http://homepage3.nifty.com/operasuzume/Trovatore.htm

「隙のない音楽の作り」というのはモーツァルトのオペラ(例えば「フィガロの結婚」など)についても言われる褒め言葉ですが、トロヴァトーレについては少し角度が違うようです。登場人物毎に変化を聞かせたテーマ、情景や登場人物の心境に応じて繰り広げられる和音進行、この二つが縦糸と横糸のように整合的に織り成されている点。テーマというのはぶっちゃけ旋律ですけれども、これが変化しつつ全編に渡り繰り返される。この技法は、モーツァルト的な角度からは、或る意味手抜きなのかも知れませんが、私のような素人の音楽好きにとっては甘美な麻薬なのです。実際、この技法は、同じくヴェルディでは「仮面舞踏会」や「ドン・カルロ」等の後期の作品で発展し(「椿姫」では逆にこの技法が禁欲的にしか使われていないのが味噌だというのが私の独断と偏見)、プッチーニ(「ラ・ボエーム」など)やレオンカヴァッロ「道化師」で一層先鋭化し、今世紀の映画音楽やミュージカルでは完全に定着します。逆に言うと、映画音楽の元祖的要素を持つ劇音楽は、今日でも繰り返し上演されるヒット作またはロングランである傾向は強いのです。

日曜日は、女官レオノーラを横恋慕したルナ伯爵のアリア「君の微笑み」と、ルナ伯爵を拒絶していたものの決闘の末、伯爵軍に捕らえられた恋人マンリーコ(=吟遊詩人?)を救い出すために伯爵に貞操を差し出すというレオノーラと伯爵の二重唱「私の涙をご覧ください」の二曲をお届けします。

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好敵手に恵まれなかったブッシュ大統領

●SECによる“行政処分勧告”は8年前に比べ激減-ブッシュ政権下での金融監督が緩過ぎたとの疑問が浮上(12/25IHT)
ナスダック元会長マドフ容疑者のヘッジファンドもどきがネズミ講詐欺に過ぎなかった事件。政権交代で退任間近のコックス会長の下での証券会社取締りは、投資家保護どころか証券会社保護だったとの批判まで上がっている。オバマ候補が指名を終えた経済閣僚は、金融行政の信頼回復と復権を主張、どのような施策に出るのか証券業界は戦々恐々としているとインターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙。

ソフトブレーン創業者の宋文洲さんと私との対談も掲載されている去る21(日)発売のMoney Japanマネー・ジャパンには、もう一つ(!?)興味深い対談「池上彰さん×森永卓郎さん」が掲載されています(ちなみに、森永卓郎さんは、同誌の先月号での私の対談相手になって下さいました。)この中で、池上彰さんが面白いことをおっしゃっています。曰く、

「冷戦時代は自由主義陣営と雖も、好き放題自由放任を進めて弊害を出すと『それ見たことか!資本主義の弊害はマルクスが言った通りだ』と社会主義陣営につけ入る隙を与えたので、規制を中心とした自浄作用が働いていた。ソ連が“無くなって”からは、好敵手不在により、自由放任が好き勝手に進められた。この行き着いた先が、サブプライム問題でありリーマン危機なのではないか」と。。。

この点、池尾和人慶応大教授も今朝の日経新聞で「証券会社、ヘッジファンド、(非連結対象の)投資目的子会社(SIV)などは『影の銀行システム』と呼ばれつつも、規制の網に掛からなかった」ことに加え、レバレッジ(平たく言えば銀行借り入れ)が利用できるファンド・マネージャーにとっては『運用がうまく行けば巨額の成功報酬が貰え、失敗しても辞任すれば済む』というルールではチキンレースを奨励しているようなものだと指摘しています。

それでもなお、池尾教授は前出の発売中Money Japanマネー・ジャパンで、「唯一成功した“社会主義国”」と故筑紫哲也さんに“評価”された行動成長期の日本において、まさしく池上彰さんご指摘の「社会主義陣営につけ入り隙を与えない」システムの一部を担った護送船団が、メガバンクへと形を変えていようが、本質的に何も変っていないと予ねてからの首尾一貫した主張を繰り返しておられます。但し、変化できなかったことが、リーマン危機的なものからの悪影響を間接的な程度に留めたというのは皮肉な結果です。

池尾教授は「金融機関のファンド・マネージャー達の規律」が必要だと説きます。私は、金融機関のファンド・マネージャーと事業会社の雇われ社長とは、背負っている責任と権限において本質的に何が違うのか良く判りません。事業会社の雇われ社長は、資金を外部調達する場合、ほぼ例外なく、
①個人保証を求められる、
②生活を担保にする程度の共同出資を迫られる、
③株主代表訴訟のリスクに晒される。
つまり、役員報酬(成功報酬)を追求するためにレバレッジを掛けようにも、無限責任が付きまとうのです。これは我が国の会社法と金融常識(金融慣習)が織り成すインフラだと私は認識しています。

これは何も社会主義陣営という好敵手が不戦敗しようとも、自由主義陣営にとって極めて馴染む“規律”ではないかと思うのですが、皆さんいかがお考えでしょうか?

我が国のここ数年の“官製不況”は期せずして、米国発金融危機の衝撃緩衝材になったのは前述の如く皮肉。ただし、最低限の規律(規制?)を限られた急所に掛ければ、責任と権限のバランス(つまりはモラルハザード回避)を担保できる。これぞ資本主義の矜持です。具体例を我がFX(外国為替証拠金)取引に則して申し上げれば、①スプレッド(“誇大広告”や“不当表示”の撲滅)、②自己資本規制比率(“四半期毎”では不十分)、③区分管理(“全額”信託保全が出来るかどうか)、④強制ストップロスのシステムが安定稼動しているかどうか、以上4点が急所でしょう。食品偽装に対して厳罰化で対処するのと同様の規律が求められればそれで十分です。
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2008年12月25日木曜日

チャリティ・オペラ・コンサート直前情報【其の参】

中高生と中高年のためのオペラ入門!『カヴァレリア・ルスティカーナ』『愛の妙薬』に続いては『蝶々夫人』です。

今年生誕150周年のプッチーニは、我が国でも人気の高いオペラ作曲家ですが、この季節になると思い出すのがフィギュアスケートでのBGM。世界に冠たる我が国の女性スケート陣が頻繁(ひんぱん)に使ってきた名旋律の多くがプッチーニによって紡ぎ出されたものです。トリノ五輪金メダルの荒川静香さんがプッチーニの“白鳥の歌”とも呼ばれる遺作オペラ『トゥーランドット』から第1幕冒頭~第3幕カラフのアリア「誰も寝てはならぬ」を使用したことは余りにも有名。その五輪の開会式では故パヴァロッティがサプライズで登場し歌ったのもこのアリアです

ところで、五輪の1年後にパヴァロッティは完全に“口パク”だったと当時の指揮者が告白。しかし腑に落ちないのは、本来オペラアリアではご法度とされている「移調」で、パヴァロッティは半音下げて「歌って」いたのです。本来のニ長調では当時の体調では無理だったにしても、半音下げればもしかしたら歌えるかも、というギリギリの努力と検討が開会式直前までなされていたかと思うと、泣けてきます。


『蝶々夫人』に戻りましょう。やはりフィギュアでは安藤美姫さんが題名役の代表的アリア「ある晴れた日に」を使用しています。今回お届けするのもこのアリアです。

時は19世紀後半、舞台は我が国の長崎。港港に女を作る米軍中尉のピンカートンは、当地で没落士族の娘で齢15歳の芸者“蝶々さん”を見初めます。ひたむきな愛ゆえにキリスト教への改宗まで決意した“蝶々さん”をピンカートンは現地妻としか思っていないにも関わらず、結婚初夜を迎えるというシーンで第一幕は幕を閉じます。

第二幕は、結婚式から3年経ったが、米国に戻ったきり帰ってこないピンカートンについて、下女スズキが「長崎に帰るという約束は反故にされたのでは?」と疑います。が、蝶々夫人はそれを否定。夫は必ず帰ってくる。その思いを載せて歌われるのがアリア「ある晴れた日に」なのです。

事実は下女スズキの疑った通り。ピンカートンは米国人ケイトと結婚しており、このあと蝶々夫人には再上陸するピンカートンに同伴されたケイトとの対面、という悲劇が待っています。

誤解のないように記しますと、歌劇『蝶々夫人』は“歩くチ●ポ”ピンカートンがアメリカ帝国主義の象徴、それに蹂躙される蝶々夫人が東洋の植民地の象徴、のような反米の物語として書かれたわけではありません。国同士がどうこうということではなく、ヒロインの一途な愛ゆえに招かれた悲劇という解釈が現在では主流のようで、それゆえ名作揃いのプッチーニ・オペラの中でも、特に人気が高い作品になっている、それが偶々舞台は日本である、というのは決して悪い気分ではありません。

ドラマチックなパフォーマンスと強靭な声帯と体力を要求される蝶々夫人はソプラノのレパートリーの中でも難役中の難役。生前、マリアカラスが得意としていたのもこの役です。

明日は、ヴェルディ作曲『イル・トロヴァトーレ』をお届けします。
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おっとどっこい、サンタクロースが出現

●GMACの銀行持株会社化をFRBが承認、救済融資枠の活用が可能に(12/25WSJ)
本日の日本経済新聞朝刊にもある「米カード最大手アメリカン・エキスプレスも公的資金で救済融資」と公的資金の適用範囲が銀行からノンバンクに広がってしまった。何でもあり、となればGMACの銀行持株会社化承認をいつまでも渋る理屈が立たない。

しかし、ゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレーが銀行持株会社になったのとは異なり、GMACの場合の制約は大株主の偏在。元親会社のGM本体や現大株主のサーベラスはそれぞれ単独での持分を10%未満にまで減らさなければならない(我が国でも、流通系その他の新銀行設立ブームだった時期に百家争鳴した「事業会社の“機関銀行”は許されない」という議論)。

そもそもGMACとは何でしょう。いまでは我が国のメーカーにとっても当たり前の、消費者ローン専門関係会社。その魁がGMACでした。GMACのAはAcceptance、すなわち自動車をツケで売った借金の証文を引き受ける(そして証券化するなどして転売する)という商売。まだ、連結決算が導入されていなかった時代においては、自社製品をツケで売りすぎるとバランスシートが膨らみすぎて金融機関から嫌われるという難点を凌ぐために、ツケ払いをオフバランスすることは打出の小槌だったというわけです。

よくよく考えれば、極めて単細胞的な財務体質(信用力)の錬金術に過ぎない理屈なのに、GMACをツケ払いの掃き溜めにすることで、長らくの間GMは米系格付機関から高格付を享受して来ました。

●消費支出0.6%減(12/24WSJ)
物価下落にもかかわらず?

●新規失業保険申請件数30,000件(12/24WSJ)
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