2010年2月4日木曜日

悪貨は良貨を駆逐する(第一回-前編)

FX会社の経営を任されて、間もなく丸5年となります。為替、すなわち通貨(の交換比率)は、人間の欲望の最も醜いところが極端に現れるものであり、それが人類の歴史の大きな転換点に繋がってきた、、、というエピソードを、暫くの間綴ってみたいと思います。

第一回 江戸幕府を崩壊させた金流出とハイパーインフレ
第二回 ヘルムート=コールの「英断」、1西独マルク=1東独マルク
第三回 スペインの価格革命「銀の大量輸入は国富の増大なのか?」
第四回 ブレトンウッズ体制の弱点をついたシャルル=ドゴールの金⇔ドル交換

ご覧の通り、時系列ではありません。

さて、さっそく第一回。折しも、龍馬伝で幕末ブームは衰えることを知りませんが、尊王の志士という生身の人間の生きざまとは距離を置き、或る種の「唯物史観」で大政奉還と明治維新を説明する流儀は流行らないでしょう。確かに、幕末の最初のトリガーはペリー来航(黒船襲来)であり、武器商人でもあった坂本龍馬たちの暗躍が「政権交代」の触媒となったことは事実に近いでしょう。しかし、ここのところはマルクスが経済こそ社会関係の土台(下部構造)と喝破したことに倣えば、(外貨準備としての)金の流出(略奪≒搾取)こそが、不平等条約の結果として最重要な倒幕への致命傷であったと指摘せざるを得ません。

グローバルには、同一質量の金と銀はおよそ1:15の比率で交換されていた(この比率は、古典古代の時代と大きくは変わっていません)にもかかわらず、幕末近辺の江戸幕府は、銀貨に、その本質的な(貴金属としての)価値の約5倍もの額面を割り当てていました。銀貨の質を落とした理由は、幕府の財政難に他なりません。ペリー後、初代駐日公使となったタウンゼント=ハリスは、彼自身が全権として締結した日米修好通商条約に基づき、同一質量の銀貨どうしの交換を日本に押し付けます。これによって、メキシコ銀貨(本源的価値=流通額面)を準備した貿易相手(米国などなど)が、悪貨である銀貨(金本位でありながら管理通貨としての名目貨幣)との交換を経由して、もとの3倍もの金貨を手に入れることを許したわけです(3倍という数字は、上記グローバル交換比率の15倍と国内の規制交換比率5倍の割り算です)。

この歴史事実を、「隣の大国がアヘン戦争で蹂躙されたので、(金流出という)みかじめ料を払うことで西洋列強の植民地に成り下がらないのなら御の字」という見方も出来る一方、「財政再建によるデフレを恐れて、銀貨の良質化を選択できなかった(追加生産による銀貨供給は不可能だった)江戸幕府の往生際の悪さ」と見ることも出来ます。交渉力に乏しい江戸幕府は、大量に金を流出させたあと、金貨自身を3倍に薄める吹き替え(金の本源的価値の3倍の額面を割り当て)を行なうことで、西洋列強への流出はとめたものの、当然の帰結として、ハイパーインフレを招き、これが倒幕への最大のモメンタムとなったのです。

このエピソードには色々な含意があります。金本位制度を長く続けてきた国々も戦争の泥沼化で一時的に金本位を停止したことは歴史上頻繁にあります。そして、戦争終了後も金本位制に戻れないこともあり、それが国力の衰退や覇権国家の地位を返上する事態に繋がることもありました(特に、第一次世界大戦後のイギリス)。

前回のブログで、オバマ政権が、突然にボルカー前々FRB議長の具申を聞き入れ、財政健全化と金融規制の方向を打ち出したことを、政権テコ入れのための取り繕いだと矮小化すべきでない と書きました。もとより米国では大衆の間ですらリバタリアニズムは根強いうえに、政権交代に翻弄されつつも歴代FRB議長は通貨の番人としての矜持を失わない実績があります。イラク、アフガン両戦争の後始末をさせられているという同情に、昨今のオバマ大統領が値するか否かはさて置き、通貨防衛≒覇権維持という観点では米国はいよいよ徳俵に足が引っ掛かったという認識をシェア出来るようになったと考えることも出来ます。
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2010年1月29日金曜日

米国にボルカーあり、日本に白川総裁あり

これが七転び八起きの1月締めくくりとなる雑感です。

ケインズ自身が実は「ケインジアン」ではなかったのではないか?ケインズという天才が「ケインジアン」に陥る程、頭が悪い筈がないのではないかというのが持論です。

風邪をひいて肺炎寸前の患者に向かって、今日から乾布摩擦を始めなさいという医者は居ないでしょう。それでも、乾布摩擦をやっておくべきだったし、いつかは始めておいたほうが良いという真理と矛盾するものではありません。オバマ大統領の金融規制や財政健全化を、政権テコ入れのための取り繕いと矮小化すべきではないでしょう。

これを突き詰めると、固定相場制、金本位制に行き着きます。現時点での非現実性は兎も角、それに、何と言っても筆者自身はFX会社の経営者なので、自らを失業に導きたくはない(笑)ですが、今日のような変動相場制は、とりわけ各国の中央銀行の衆愚政治からの独立性がマチマチであること、中央銀行とは別の、ソブリンウェルスファンド(そのもののような政治体)の相場操縦が無視できないという前提のもとでは、想定外の危険性を孕んでいることを指摘せざるを得ません。
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2010年1月22日金曜日

チャリティコンサートのちらしが出来上がりました♪♪

とは言え、まだ曲目が載っていないという画竜点睛を欠く内容ですが、チェルノブイリ子ども基金の事務局の皆さんの渾身のお力で、レイアウトの美しいちらしになりました。

チラシの表
チラシの裏

曲目不掲載のままアップしましたのは、肝心の(????)、ウクライナ出身の“コロラトゥーラソプラノ”、オクサーナ=ステパニュックさんと私丹羽の重唱曲が決まっていないからです。以前、当ブログにて、予定と書かせていただいたヴェルディ作曲歌劇「椿姫」から第一幕ヴィオレッタのアリア「あゝ、そはかの人か?~花から花へと」および第二幕ヴィオレッタとジェルモンの二重唱「天使のように清らかな娘を」が廃案となり、同じくヴェルディ作曲の歌劇「リゴレット」からアリアと重唱となるかも知れません。

いっぽう、内定しましたのが、我が国を代表する若手女流ヴィルトゥオーゾ、印田千裕さん のヴァイオリンの独奏曲です。難曲の定番とも言えるサラサーテ作曲「序奏とタランテラ」 および、印田千裕さんが若くしてライフワークとして取り組んでいらっしゃる日本の女流作曲家の作品の発掘と普及の活動の一環として、幸田延(こうだのぶ)のヴァイオリンソナタ(日本人初のクラシック音楽の作品と言われています)を取り上げます。

オペラ以外の作品で、出演者全員が演奏する曲目として、カッチーニ作曲「アヴェ・マリア」を準備中です。カウンターテノール(=男声の裏声)の名曲として現代に蘇ったイタリア古典歌曲ですが、キーをオクサーナさんに合わせるため、残念ながら私の気持ち悪い裏声(←謙遜です&笑)は御披露できない予定です。また、サラ=ブライトマンとアンドレア=ボッチェリの重唱で大ヒットした「君と旅立とう」も、バリトンとしてはややきついキーですが、頑張ります。

チケットのお問い合わせは、フェニックス証券広報係長丹羽広まで、連絡先ご明記のうえ、お気軽にお問い合わせください。
h.niwa@phxs.jp
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2010年1月18日月曜日

コンクリートから秘書へ!?

キングとキングメーカー
ウィキペディアで小沢一郎と入力すると異例の長文のサガSagaが出てきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E4%B8%80%E9%83%8E
七転び八起きの衒学的な経済記事より、どろどろとした政治物語のほうが好きだ、とおっしゃる読者でも、途中で読むのが嫌になるほどの長編小説の粗筋こそ、「失われた20年」の間に、いったい日本の政治は何をやっていたのかと暗澹たる気分にさせる話であります。

と、こういう書き方をすると、「七転び八起きよ、おまえも一般メディアと同じで、知恵の無い評論家や庶民と同じで、世の中が悪いのは政治のせいだと言うのか?」と思われます。確かに、これでは、(緩やかな)デフレを日銀のせいだと欠席裁判する八方美人の評論家と同罪ですので、「そうじゃないんです」というお話を後半で致します。

ところで、ウォールストリートジャーナル紙では、小沢一郎氏をa powerful senior official of Japans’ ruling party(与党の権力に富んだ上級幹部のひとり)と不定冠詞で表現していますが、日本国民は違和感を覚えるでしょう。キングメーカーがキングより権力的に上級であるという現象は、上記ウィキペディアを参照するまでもなく、またその前史にあたる田中角栄時代も含めて、日本の政治史では頻繁に見られる現象です。おっと、大企業の経営史も、天皇の権力もそうでした。

清濁のリバランスを可能にする仕組みとは
民主党のキングとキングメーカーの両方の「政治とカネ」の問題は、二世議員が跋扈する政治風土に現れた極端な事例です。地盤、看板、鞄を持たなければ馬鹿馬鹿しくてやってられないのが日本の政治風土だとすれば、自民党(時代)と共通です。野党時代だったから職務権限が存在しない、だから贈収賄は成り立たないという理屈も、巨額資金の源泉から使途へと問題の焦点を移すと、政党内の権力(の座)と資金力の関連性について、眼を塞ぐわけにはいきません。

実は、小沢一郎氏の政治理念は、その鋭さと首尾一貫性において、卓越したものがあります。そして、それを実現するためには「清濁併せ持つ」必要があることを、抽象論ではなくて体感している点において、氏の右に出る者はいないかも知れません。中選挙区制度ではカネが掛り過ぎるということで小選挙区制度を導入したのが政治改革だったとすればせせら笑うべき話ですが、これには小党、新党が割拠する状況では政治は流動化するばかりであるという反省もあったと思われます。

民主党では一兵卒だった筈の小沢一郎氏が、やはり権力を掌握したのは、文弱だった民主党の体質を改善すべく、溝板選挙を陣頭指揮した功績が背景にあります。そして、そこには経験や話術だけでなく、やはり残念ながら少額では済まされない資金が必要だったのかも知れません。

七転び八起きは、いまでも、我が国政治の分岐点として、衆参捻じれ現象下の小沢代表(当時)が福田首相(当時)と大連立を協議したのに、民主党の他の幹部から差しとめられ、民主党離党を一瞬表明した事件、あの時歴史が動いた、否、止まったと見ています。

恐らく、政治家の皆さん自身が、判っていても言い出しづらい、行動に移しづらい、政治の枠組みのリストラの妙案がいくつもあると思われます。一院制にして、定数を抜本的に減らしつつ、全国区比例代表のウエイトを格段に上げる。これをやれば、90年代の政治に混迷を与えた小党、新党の問題は再燃せず、カネの掛らないリーダーを産み出せます。二世議員の同一地盤からの出馬禁止というやり方は、アプローチ方法が間違っていると七転び八起きは考えています。一院制その他の改革、否、革命に近いかも知れませんが、捻じれは一切生じなくどころか、欧米アジアの主要国とも対峙できる元首と呼ぶに相応しいリーダーが、その候補となる多くの人材が、政治の世界に関心を抱くようになるでしょう。
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