2009年11月10日火曜日

レヴィ=ストロースの残したものは・・・


巨星墜つ
今年も残すところ2ヶ月を切りました。思えば今年の1月は、七転び八起きの処女作『為替力』で資産を守れ!の出版準備で夜通し仕事をしていましたが、その締めくくりとなる校了の日に、頗る雑駁に、そして下品に、構造主義について敷衍しました。

DINKsとボイン

言語学の世界で構造主義を確立したのがソシュールだったとすると、文化人類学の世界でそれをなしとげたのが、先月末100歳の天寿を全うしたレヴィ=ストロースです。 人類学の巨星墜ち、またその天才と努力の集大成とも言える難解な著作野生の思考の日本語訳で骨を折られた大橋保夫先生も、その早すぎる他界から10年強経過してしまったことに直面し、時間があるときにしっかり勉強しなかった自分を恥じつつ、仕事に東奔西走していたここ1~2週間でした。

死語となった「近代経済学」と「混合経済」
社会主義というよりは社会正義という観点から、マルクスとエンゲルスを読み漁っていた高校時代、今となっては殆ど勝負あったかに思われる「価値」の本質とは何か?について、労働価値説と効用価値説の対立があると何となく知らされていたものの、対立軸が何処にあり、どちらがどう正しいのかなかなか見えないまま、当時の「政治経済」という受験科目と格闘していたものでした。

時に、混合経済という言葉を死語に化したのは、米ソ冷戦の終結だったかも知れません。加えて、中国の社会主義市場経済への傾斜という助太刀もあったでしょう。そして、米国の市場経済への国家介入を招いた世界金融危機が止(とど)め刺したとも言えます。純粋な資本主義経済も鉄壁の社会主義経済も地球上から殆ど絶滅した(DINKsとボインで言えば、「DINKs型」の死語であって、「ボイン型」の死語ではない)のと同じように消えてしまったのが近代経済学という用語かも知れません。新古典派(総合)とかケインジアンなどを包括する概念を、経済学にわざわざ「近代」という“枕詞”をくっつける必要がなくなったのは、マルクス主義のアカデミズムからの衰退と鉄壁な社会主義への幻滅のせいでしょうか。

構造主義やポストモダンは過去の遺物なのか?
しかし、世の言論が、というよりは七転び八起きブログそのものの反省でもありますが、市場原理か?はたまた統制または規制強化か?という二項対立で盛り上がってしまい、自分も含めて目線が経済・金融へと視野狭窄に陥ったことに忸怩たる思いがあります。

前掲の大橋先生が難解な著作との格闘を後日語っておられるように、野生の思考のエッセンスをうまくここで伝えることは出来ません。

その点、このニュースサイトは大変優れています。http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20091109/209264/

資本主義列強が、奴隷の調達や植民地支配、そして今日も続く核燃料など天然資源を搾取するために、原住民の人格や人権を蹂躙してきたのは、何も西欧人だけが悪者で、キリスト教徒だけが邪悪な思想だからとは言えないでしょう。自分たちが悪行に手を染めなければ競争相手に出し抜かれるだけという妄想は、立場次第で誰にでも、どの民族や国家にも起きうるでしょう。しかし、悪行を正当化するために、未開人は思考回路が野蛮(≒野生)であり、犬猫と同じなのだから、優れた文明思考の自分たちに使われて当然という価値観の押しつけまでは許されない。これこそが、レヴィ=ストロースの真骨頂のひとつだと思われます。同じく人道主義の立場から晩年マルクス主義に急接近したサルトルですら抜けきれなかった西洋風(?)合理主義の呪縛を引っぱたいたことも、野生の思考を歴史的な大書たらしめている大きな要素のようです。

ブームが去った今こそ・・・
ヨーロッパのアカデミズムは、人道主義の立場からユーロ=コミュニズムを支援する一方で、現実化し始めてしまった社会主義における非人道、すなわちソ連でのスターリン粛清や中国での文化大革命を消化しあぐねていました。鉄壁の社会主義とは異なる本質をマルクスのなかに見出そうと努力したのが、レヴィ=ストロースの構造主義に触発された第二世代のフランス現代思想家たち。その代表格のひとりが、ルイ=アルチュセールです。マルクスの経済学・哲学草稿に見られる人道主義と、資本論の完結に向けて確立されていった剰余価値学説(≦前掲の労働価値説)を分断すべきという彼の発想には激しい批判が繰り返されましたが、前途洋洋たる日本の数学者の卵を経済学の世界に引き摺り込む程の魅力に満ち溢れた思想家であったことは否定できません。その数学者、もとい、経済学者こそ、リーマンショック直後に七転び八起きブログで取り上げた塩沢由典先生です。

格差は作られた

神の見えざる手

実は、塩沢先生は七転び八起きの数学の恩師です。そして、野生の思考の翻訳者である大橋保夫先生はフランス語の恩師(担任の先生)です。

(2018年1月28日追記)そして、何と驚くことに、塩沢由典先生のフランス語の先生もまた大橋保夫先生であることが、去る1月15日の仮想通貨プレゼンのあとの懇親会で判明しています。

http://forexpress.com/columns/blog.php?ID=368&uID=tp

時将に、若き哲学者だった浅田彰さんが、実際には殆ど中身は読まれていないのではないかと言われた異例のベストセラー構造と力でニュー=アカデミズムの旗手ともて囃されたころでした。ここでまとめられている、判り易いのか判りにくいのか判らない思想史を振り返ると、フランス現代思想が何故にブームになり、ブームで終わったのか少々判るような気もします。レヴィ=ストロースの死去が本国フランスは兎も角、ここ日本においては非常に静かに迎えられているニュースとして終わっていることと平仄をなしています。

しかしながら、前掲の「市場原理主義か規制介入か?」「小さな政府か大きな政府か?」という議論が、こうしてくだくだ言葉を並べている七転び八起き自身がそうであるように、金融経済の範疇への視野狭窄に陥りがちな中、そして何よりも熱狂が去った今こそ、経済学だけでなく、言語学や人類学との激しい相互作用を醸しだしてきた構造主義とポスト構造主義を振り返ってみたい。それが、不勉強の自分自身への反省と、恩師の皆さんへの恩返しだと思う、ここ数週間です。

0 件のコメント: