2008年10月13日月曜日

神の見えざる手

「経済学は相場を当てたり金を儲けたりするための学問じゃない」と昔から咎められたものでした。心理学を勉強しても異性の気持ちは読めないのと同じか・・・何とかして女の子にモテたいものだと必死で岩波新書の心理学関連の書籍を読み漁った高校時代。その効果が全く無かったことが今となっては懐かしいです^^;

役に立つ学問もあります。物理学は自動車や新幹線を走らせることに貢献していると思われます。モノづくりに貢献している物理学。その殆どは、“ニュートンの林檎”で巷間流布されている「万有引力の法則」をひとまず疑わずに先に進めているものです。この“そもそも論”を疑い、直接は《モノづくりの生産性向上⇒物質的な豊かさ》に貢献しない道を選んだ日本人研究者にノーベル物理学賞が与えられました。

喜ばしいニュースは、目先役に立たないことを一生懸命やることの大切さだけでなく、立派な研究が目先の報酬や豊かさと関係がないだけでなく、学歴や学閥とも関係しないことを教えてくれました。駿台や四谷大塚の偏差値が気になって仕方がない世の教育ママ(これって死語?)に理解してもらえるでしょうか。

昨日、池袋のジュンク堂で、いかにも役に立たなさそうな本を見つけました。『ケネーからスラッファへ―忘れえぬ経済学者たち』(菱山泉著、名古屋大学出版会、1990年)。公共工事のバラマキ政策論者とレッテルを貼られてしまった可哀想なケインズほど有名ではない二人を極々簡単に紹介します。『経済表』で有名なケネーはフランスの経済学者で外科医(ポンバドゥール夫人、ルイ15世の侍医)。フランス革命期に相次いで死亡したブルボン家の陰に、ケネーの存在があったという噂もあるそうです。大革命前夜のブルボン朝は重商主義政策まっしぐら。ベルサイユ宮殿建設は余計ながらも、殖産興業と富国強兵のために、労働者と兵隊の実質賃金を下げるべく、穀物相場を抑える必要があったので、穀物輸出が禁止されていた。これにケネーは猛烈に反対。規制はなるべく緩和・撤廃すべき。富を生み出すのは商工業ではなく土地(農業)だけと言い切ったケネーは自由放任主義の草分けだとか重農主義者とか言われます。ケネーについて詳しく判りやすい本として、『読書と社会科学』(内田義彦著、岩波新書、1985)を挙げます。スラッファはイタリアの経済学者で、新リカード学派と呼ばれています。ケネーとスラッファを結び付けているのが、金曜日の夕刊で敷衍したイギリス人経済学者リカードの存在なのです。

リカードは、比較生産費説を従えて自由貿易の利益を説き、穀物法に反対する等、市場原理主義者の顔を持っていますが、初期のリカードは、重農主義者ケネーの説を定式化することに成功します。リカードの好む譬で、小麦と絹しか商品(産業)が無いと仮定、ふたつの産業の利潤率(利子率)が同一だとすると、利潤率は小麦産業における小麦の投入量と産出量(の比率=生産性または技術)のみで決定する。つまり小麦(基礎財)の産業技術が閉じた経済の利子率を先決的に決定し、絹(非基礎財)の利子率は従属的に決められるに過ぎない、と。

その後、リカード自身、基礎財だけを特別扱いする態度を捨ててしまいますが、初期リカードの重農的立場を継承し発展させたのがスラッファです。基礎財、非基礎財というと、戦後アメリカで何があっても主流の座を明け渡さなかった新古典派経済学(ぶっちゃけミクロ経済学)で出てくる必需品と奢侈品(ぜいたく品)と似ていますが、理論上は殆ど関係の無い概念です。

新古典派経済学は、リカードが経済学を勉強するきっかけになったと言っているアダム・スミス『国富論』の有名(というか恥ずかしながら筆者もそこしか知らない^^;)「神の見えざる手」というワンフレーズに対する果てしない注釈に過ぎないと言った経済学者がいます(奥野・鈴村『ミクロ経済学』岩波書店)。限界効用が逓減する(無差別曲線が下に凸)+限界生産性が逓増する(規模の不経済が存在する)という前提に立てば、中高生の社会科の教科書に出てくる需要曲線と供給曲線が×点のところで交わり、そこで価格と取引量が決まる。その均衡点に神の見えざる手で導かれるというわけです。

新古典派経済学にとって、限界効用逓減と限界生産性逓増は、古典力学にとっての万有引力の法則と同じようなもの。ただし、恐ろしく異なるのは、万有引力の法則を信じて疑わなくても人類の役に立つ様々な理論や機械装置が生み出されるのに対し、経済学の前提(モデル)は素人の直感に照らしてもホンマかいな?と疑ってしまいたくなることです。

リカードの初期理論に注目したスラッファの理論展開は、経済学のなかでは全くの非主流。経済企画庁(現 内閣府)やIMFでも計量モデルとして使われることはないでしょう。端折って言いますと、限界効用も限界生産性も、逓減も逓増もしない(グラフで描けばまっすぐな直線だ)と仮定すると、神の見えざる手が最適解を導かなくなってしまう。

ひとつの閉じた経済を連立方程式に譬えると、商品の数だけ連立方程式があり、その相対価格(商品の数-1)、利潤率、労働賃金が未知数(変数)となります。つまり、この多元連立方程式は方程式の数より1個だけ未知数が多くなり(自由度=1)、商品の相対価格が全部決まっても、利潤率と労働賃金の比率は一元的には決まらないという恐ろしい結論が導き出せるのです。

難しいのは、均衡モデルではない線形モデルというのは神様が均衡点という最適解“もどき”導いてくれないので、人為的に決めざるを得ない、または人為的に決められてしまっている可能性があるということです。

これを国際貿易論、ひいてはFXの相場の適正水準はどこなのか?という議論に発展させていくことは、筆者が社長をクビになったら本腰を入れて研究したいと思っていますが、ヒントは既に金曜日のブログにあります。純粋な加工貿易型の小国の為替水準には適正レベルが存在しない可能性があること。農産物(+天然資源)等、基礎財を中心とする閉じた経済が国民経済の大きな一部として内包している国の交易水準や金利が先ず先決的に決まる。これは、資本移動が規制されている非現実的な前提に立った議論ですが、「外国の金融機関は信用できない」地球規模の金融危機に際しては、このような前提に現実が近づく可能性が否定できません。

神が導いてくれないのなら、人為的に規制するしかないじゃないか?と、均衡を否定する論説が規制強化や計画経済を正当化することに使われるのはあってはならない話でしょう(『複雑系経済学入門』塩沢由典著、生産性出版、1997)。赤信号だったけど、皆で渡っていたのに、轢き殺されたという犠牲者を構ってあげるほど世界経済に余裕はない。そんなことに公的資金を使うくらいなら、四川大地震の被災者を助けるべきです。

決済インフラの機能を守ることが目的であれば、公的資金の投入範囲は決済預金と銀行間市場を時限的に政府保証することに限って良い筈。赤信号とわかっていながら、貸し手も借り手も互いに収奪しあった住宅ローンその他の不動産関連取引も粛々と破綻処理していけば良いのです。
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