2022年11月8日火曜日

幕末史-納得と幻滅と(前編)

高校時代、日本史を選択しなかった私にとって、幕末の知識は、中学までの歴史と、ここ最近のマイブームと言える司馬遼太郎先生の諸作品からのものです。

 

このような歴史音痴の私が、大胆にも、日本史の節目に現れた、通貨や外国為替を巡るエピソードについて独自解釈を展開したのが、政治観が一致するとはとても言えないワック出版のWiLL Onlineの「現役FX会社社長の経済&マネーやぶにらみ」でした。

 

歴史の知識にも、研究する時間にも乏しい駄馬を、水場へと引き連れてくれた同社の役員 兼 編集員 兼 校閲ボーイのNさんもまた司馬遼太郎を尊敬する仲間です。そのなかでも特に、Nさんは、毎年一回読み返す作品があるというのです。それは、明治日本の徴兵制の基礎を作った、もともとは蘭学者(蘭方医)の大村益次郎こと村田蔵六を主人公とする「花神」です。

 

私もまた、ふたつの理由から、「花神」が特に気に入っているのです。ひとつは、司馬遼太郎先生の実質的な処女作である「梟の城」の主人公葛籠重蔵同様、村田蔵六も、技術のみを信頼し、組織やコネを無視するというか忌避する性格、世間体や社会的地位、つまり自分がどんな大組織に属しているのかとか、ヒエラルキーのトップから数えて何番目に位置するのかとか、部下を何人抱えているのかとかに興味を示さない点、です。

 

この点では、司馬遼太郎先生が取り組んだ「義経」や「国盗り物語」の斎藤道三と明智光秀、「関ケ原」の島左近と石田三成などとも共通はしていると思います。が、著者あとがきなどでは、義経、光秀、三成に関しては、(蔵六や重蔵と同様)あまりにも政治的センスがなさ過ぎたために天下をとれなかったのは自業自得だという書かれ方をしています。政治的センスの無さでは同様の、蔵六や重蔵たちが、司馬遼太郎先生自ら魂を注ぎこんだキャラクターとなり、大好きであり、そのものになりたいという気持ちが溢れているのとは大きなギャップを感じてしまいます。

 

ただし、蔵六と重蔵にも違いはあります。蔵六には、その政治的センスのなさを補って、技術志向という長所を引き出すべく、政治的センスのかたまりである桂小五郎(木戸孝允)など、盛り立ててくれる保護者がいたことでしょう。

 

まあ、蔵六としては、実は開明的でなかったわけでもない幕府おかかえの蕃書調所ついで講武所の教授のままでいられたほうが幸せだったのではないか?桂小五郎に惚れこまれたがゆえに薄給冷遇の長州藩へと引きづりこまれたのは有難迷惑だというのが世間の平均的な価値観なのだと思うのですが、そんなことは気にしないのがまた蔵六の魅力というものです。

 

魅力と言えば魅力。しかし、身分も評価も俸給も捨てて地元に帰るという蔵六のメンタリティに「攘夷」(外国打ち毀し)という裏面があったとすると、当時引く手あまただった人材中の人材で最も開明的であった蔵六の表面とどのように折り合いがつけられていたのか。

 

司馬遼太郎先生は、ここについては、かなり、小説らしからぬ注釈と余談で説明をしてくれています。

 

そこは「花神」本文に譲るとして。

 

もうひとつ「花神」が好きになったのは、小学校の最終学年のころに、はじめて観た大河ドラマが「花神」だったからなのです。

 

ただ、正直に言うと、総集編しか見ていません。いまでも、NHKアーカイブスには総集編しか保存されていないそうです。

 

ドラマのほうももちろん大村益次郎こと村田蔵六が主人公なのですが、ドラマ台本には、司馬遼太郎作品として、「花神」とほぼ同格に「世に棲む日々」(前半が吉田松陰、後半が高杉晋作)、「峠」(河合継之助)「十一人目の志士」(天堂晋助)が巧みにアレンジされていました。

 

配役が私には重要な思い出なのです。村田蔵六役は中村梅之助があまりのはまり役で、これが理由でどこのプロダクションもリメイクしないのではと疑っています。それはそれとして、高杉晋作役が中村雅俊、天堂晋助役が田中健。この二人は、前年にNHKではない民放某局でNHK大河ドラマと同じ日曜8時に「俺たちの旅」で主役コースケ、準主役オメダとして共演していたのです。

(中編へと続く)

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