2022年11月15日火曜日

幕末史-納得と幻滅と(中編)

私はこのドラマに嵌っていて、それを小学校の担任の先生(4年生から6年生までお世話になった稲垣雅敏先生、若くしてお亡くなりになり、まったく恩返しが出来ませんでした)にその魅力を伝えたところ「丹羽君、大河ドラマを見たほうが良いよ」と諭されたのを覚えています。

 

「俺たちの旅」のコースケと「花神」(実質は「世に棲む日々」)の高杉晋作は、同じ中村雅俊が演じていることもあって、破天荒の愛されキャラがそのままタイムマシーンに乗ってきたような錯覚を得たものでした。

 

子供心には、高杉晋作>村田蔵六だったと記憶します。齢をとったいまは真逆以上です。

 

それは個人の見解に過ぎないとして、第二次長州征伐(長州藩での呼び方は四境戦争)で、信長の桶狭間の戦いや義経の一の谷の戦いを彷彿とさせる番狂わせを演じたのは、大村益次郎の才気煥発極める指揮と高杉晋作の電光石火のごとき決断力と行動力という歴史観が定着していたと思います。

 

「花神」と「世に棲む日々」は、特に司馬遼太郎先生の作品群のなかでも、いささか揶揄された表現なのでしょうけれども、「長州史観」の決定版を一旦は頭に叩き込むために、このふたつを繰り返し読むことは私には必要でした。「長州史観」という言い方はしましたが、幕府側に開明的要素がなかったわけでは決してないことや、俗論党との接触と調整を図ろうとした赤禰武人を悪くは書いていない点にも注目です。あと、「世に棲む日々」だけを読んでいると、禁門の変(蛤御門の変)以降逃亡していた桂小五郎がいつ長州(の政治の舞台)に戻ってきたのかさっぱりわからないという難点もありました。

 

ここで、繰り返し読んでも、なかなか腑に落ちないのが、桂小五郎や高杉晋作、そしてその仲間である後の伊藤博文や井上薫たちの(対俗論党の)庇護者である周布正之助が、伊藤や井上たちいわゆる長州ファイブを英国に留学(?)させようとする意図とプロセスです。

 

これは、両方の小説に登場する重要な場面局面ですが、「花神」でのみ、村田蔵六が負わされた任務と負担が濃厚に描かれていたりします。

 

当時、長州は攘夷の旗頭として下関で英国の貿易船に砲撃を加えています。つまり、英国とは戦闘状態にあるわけです。このような状態で、金さえ積めば藩の幹部候補生を留学させてあげられる、地獄の沙汰も金次第だ、というのもさすがに無理ではないか。これが腑に落ちない点なのです。

 

普通に考えると、何らかの「英国筋」から周布に対して探りがあったのではないか?どれだけ、周布や桂や村田蔵六がそれぞれの立場で、「攘夷は手段」「目的は開国(交易)を通じた『国』力の醸成」という開明的な鳥瞰図を共有していたとしても、この展開はあまりに唐突に思えるのです。

 

実は、長州ファイブに関する資料はいまだに乏しく、現時点においても、私のこの疑問については満足のいく解答は得られていません。

 

しかし、先日NHKスペシャルとして放映された

新・幕末史 グローバル・ヒストリー 「第1集 幕府vs列強 全面戦争の危機」

新・幕末史 グローバル・ヒストリー 「第2集 戊辰戦争 狙われた日本」

 

これらは、私の疑問への糸口を与えてくれる新しい発見でした。

(後編へと続く)

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