2011年10月13日木曜日

ジョージ・ソロス氏のユーロ防衛発言は続くが・・・

ここ数カ月続いたユーロ危機が小康状態になった一週間ですが、この間フィナンシャルタイムズに幾度もユーロ防衛(応援)発言を繰り返してきたジョージ・ソロス氏。(ロンドン時間の)今朝も

「まだまだ(現在のEFSF合意だけでは)不安である。・・・

・・・地雷原を潜り抜けてユーロが守られるために各国首脳が取るべき手段はこの狭い道しかない」

という論稿をあげています。

不世出のヘッジファンドのマネージャーによる執拗なまでの「ユーロ圏はかくあるべき」発言は、自らのユーロ買い越し(かつまたは南欧系諸国の国債のキャリー)ゆえのポジショントークとも考えられ、だとするとこの1週間の戻りでもまだ満足できない水準だということでしょうか。

1997年のアジア通貨危機や、更に遡って1992年のポンド危機の時の振るまい、その背景に「通貨が売られるには合理的な理由がある」という正論染みた哲学と比べると、この間の氏のFTへの論稿には違和感を覚えました。

尤も、氏のポジショントークは、好意的に捉えれば、アジアやイギリスでやったことをユーロ圏(≒EU)で繰り返して三匹目のドジョウを狙うのは、世界平和の観点から洒落にならないという人道的な配慮とも見られなくもありません。が、いずれにしてもその中身は、その執筆意図に反して、何故この先もヨーロッパは危機と背中合わせなのかを明確に示しています。

氏が描いている処方箋を裏読みすれば、欧州の銀行は乾布摩擦をする予定だったのが、国立病院のなかで肺炎が蔓延してしまっているという状況のようです。
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2011年10月11日火曜日

ノーベル経済学賞にサージェント氏とシムズ氏

ウォールストリートジャーナルは、受賞者であるふたりの米国人の功績を、いわゆる合理的期待形成理論を打ち出したことだけにとどまらず、統計学の応用によって、マクロ経済学は、「サージェント=シムズ以前」と「以降」に分類されるほどだとの称賛を引用しています。

一方、フィナンシャルタイムズは、インフレターゲットや量的緩和(QE2などの時間軸効果)のコミットなど、中央銀行の政策目標がガラス張りであることの良し悪しについての分析において、このふたりの受賞者の研究成果が大いに役立つことを指摘しています。

財政・金融による恣意的な景気刺激策は、長期的には勿論、短期的にも意味が無いと説く、合理的期待理論は、レーガン政権下の経済運営に大きな影響を与えていた筈ですが、実際には、社会保障費などの削減以上に国防関係費が嵩むという経過を辿り、当時の米国経済は、オールド・ケインジアン的な枠組みで景気を回復させてしまいました。

80年代後半の我が国のバブル経済が崩壊してから、財政政策は平時経済では有り得ない程度の赤字を続け、昨今財政破綻の問題が起きている欧米諸国のどこよりも悪い水準に至るまでになっています。この20年間、合理的期待理論が日本経済の失速をどのように解説できるか?本質を穿つ難問ゆえ、別の機会に譲らせていただきたいと思います。

より現実的でわかりやすい実例は、リーマンショックからの米国経済の立ち直り、世界経済の立ち直りに、惜しみない財政・金融政策は、大いに貢献していたのではないかという観察です。幸いなるかな、労働市場も、金融市場の参加者も、サージェント氏が想定していたほど、合理的に行動はしていなかったということです。

しかし、それが長期的に、恒久的に有効ではない、、、、という至極当たり前のことが、欧米両側で発生している債務危機(ソブリン危機)です。

民間銀行の問題を国家権力(の協力)によって一時しのぎは出来た。が、問題の所在が国家権力のレベルに格上げされると難易度は比較になりません。

欧州通貨の相場については、一時しのぎで対円または対ドルで戻っているときは、売りから入るチャンスだと考えられます。収束にはかなりの時間を要し、相場の変動幅が大きい状況が意外と長く続くと予想します。
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2011年10月3日月曜日

ベートーヴェンとヘーゲルが同い年だったという浅田彰氏の指摘

止揚(アウフヘーベン)としてのユーロ圏

前回このブログにアップした「月刊FX攻略」の記事「為替力で資産を守れ」の“チラ見”(”立ち読み”)ですが、既に来月号の原稿を編集長にお送りしております。

やはり、ユーロ問題を、さらに掘り下げようと思って書きすすめた直近号の続編です。このなかで、「ユーロ圏」という統一通貨構想が、過去延々と民族間の対立・戦乱のなかで繰り返されてきた分裂と統一の長所短所の止揚(アウフヘーベン)としてぶち上げられたものではなかったかと、指摘いたしました。

止揚(アウフヘーベン)というのは、ヘーゲル(1770~1831)哲学(など)の弁証法(ディアレクティーク)で、相対立するふたつの命題(テーゼとアンチテーゼ)から、その矛盾を乗り越えて一段階上の命題(シンテーゼ)が作られる過程を意味します。

対立を乗り越えた和解のようなイメージです。

ソナタ形式と弁証法

10/1(土)11:00から、NHK教育テレビで再開した坂本龍一「音楽の学校(スコラ)」は、前回シリーズでバッハが取り上げられていたのを踏まえて、ハイドン(1732~1809)、モーツァルト(1756~1791)、ベートーヴェン(1770~1827)を中心とする(ウィーン)古典派の作曲家がテーマになっています。

この新シリーズ(シリーズ2)の初回は「古典派の歴史的位置づけと音楽的特徴」と題して、「ソナタ形式」とは何かについて、坂本龍一氏とその「仲間たち」である、浅田彰氏、岡田暁生氏、小沼純一氏と、作曲を勉強中の高校生たちとともに、探っていくという試みでした。

教科書的な音楽史には見られない斬新な切り口が各々の発言から読み取れ、30分ではとても足りないテーマながら凝縮した番組内容。その中で、特に注目したのが、浅田彰氏の指摘

「ベートーヴェンとヘーゲルが同じ年に生まれている。」

「ソナタ形式の大家と弁証法の大家の生涯が重なっていることは偶然とは思えない。」

「弁証法というと難しいが、ドイツ語の意味としては『対話』ということ。ソナタ形式も(第一主題と第二主題の)対話ではないか。」

というところでした。

浅田彰氏の名言の数々

実は、前回シリーズ(バッハ)で、岡田暁生氏が「ソナタ形式という音楽用語は、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン(たち)よりも後の時代の評論家が名付けたものである」と指摘していたのが印象的でして、ウィーン古典派の大家の3人が、形式を洗練しようとか守ろうとかいう意識と、第一にパトロン(スポンサー)や一般聴衆の信認を得たいという意識と、どのように混在していたのかハッキリしないのです。

以前ブログで譬えに使った俳句の五七五と似ていると思います。

つまり、才能を発揮したい、才能を認めて貰いたい、その結果として名声と生活を確立したいという動機がない筈はない天才作曲家たちが、過去の巨人の形式を(、、、敢えて、または知らず知らずのうちに、、、)踏まえたうえで、独創性を訴えたいというのは、矛盾した、二律背反した、苦しい作業のようにも見えます。

この矛盾をあっさり読み解きたいと思い、浅田彰氏の切り口を振り返ってみることとしました。

浅田彰氏は知の巨人であり名言の天才です。まず、ウィキペディアによれば、

「財務省のエリートは、数学か経済学の博士号くらいは持っていて、5時にはサッと仕事を切り上げて小説を執筆するなりオペラを鑑賞するというスタイルを持つレベルであってほしい」

と述べているそうです。ほんとうにおっしゃるとおりであり、勿論、能力が低いから残業しているわけではないとわたしは推測していますが、政治主導だけでなく、人事院主導でも、この国の行政はずいぶん良くなる余地があると思います。

勉強しろ!!!ということで言えば、昭和59年(西暦1984年)の春、大学の入学式の直後の学部の茶話会で、氏は新入生に向かって、

「女遊びなどは半年一年ガンガンやれば飽きる。早く飽きてしまって勉強してください。」

という発言がありました。ご本人は覚えていらっしゃるかどうか判りませんし、また、ご本人がそのような時期に飽きるほど集中的にお遊びになったのかどうかも判りません。

勉強好き(だが商売が苦手)なわたしにとっては、これまた我が意を得たりという名言ですが、今日の日本の状況では、飽きるほど集中的に遊べる男性諸氏は殆ど皆無に近いと推察されます。

ところが、需要があるところには供給があるものです。個室ビデオ鑑賞なるものが町のどこにでもある。こんな国は、わたしが知る限り、日本だけではないかと思いますが、何かと閉鎖的と言われるこの国も、外食産業など一部のサービス分野には自由主義経済の良い面が発揮されているのです。

第一主題と第二主題は陰と陽の関係だったりする(坂本龍一)

何が言いたいのかと言うと、、、、殆どの男性は、場所は兎も角、「鑑賞としての遊び」を経験しているわけであり、恐らく複数のソフトというかコンテンツの経験があると想定されますが、毎月夥しい数量の新作ソフトが供給されて、もう何十年にもなる歴史の中で、よくよく考えてみると、中身の細かいところは兎も角、骨格としての進行パターンは殆ど変わらないことに気づかされます。

それと、ソナタ形式と、どう符合するのか!?

当ブログはアダルトサイトではないので、またそのような事業主との資本関係もございませんので、此処から先は御想像にお任せすべく、読者のみなさまの宿題とさせていただきます(笑)。

ひとつ大事なことは、その類のソフトの進行パターンは、こうでなくてはならないと、業界団体(≒自主規制機関)で、頭ごなしに決めつけているものでは決してないこと。パターンを踏まえようという意識よりも、夥しい過去のストックや新作のなかで埋もれないように、新しいこと、独創的なことをやりたいという意識のほうが、制作側にはずっと強いと思われること。。。

このような意識のバランスだとか、生存競争という環境だとかは、ソナタ形式と向き合っていたクラシック作曲家たちと意外なほど共通するものであったと想像しています。

2011年9月29日木曜日

月刊FX攻略11月号、もうお買い求めになりましたか?

雑誌ですので1ヶ月程度前に書かせていただいた原稿ですが、今まさに焦点のユーロ問題について書いております。

立ち読み程度に・・・

ヨーロッパではギリシャに端を発した財政危機が桁違いに病巣の大きいイタリアとスペインに蔓延したことで、ユーロが導入以降最悪の危機に直面しました。一方、米国では、すったもんだの末、米国債の発行上限の問題を議会がクリアしたものの、その直後の米国債格下げ(スタンダード&プアーズ)で基軸通貨(?)ドルの存在感を取り戻し損ないました。金融市場が大混乱したなかで、日本は前人未到の円高のお盆を迎えています。

(中略)

ひとつはサブプライムを一例とする詐欺的手法でレバレッジされた不動産バブル、もうひとつはユーロという通貨統合によって期待された不動産バブルに過ぎず、その宴のあとの後始末の厄介さの本質は、日本の90年代、2000年代と変わらず、しかもどうやら欧米のほうが重症なのではないかということです。

(中略)

財政出動やらイカサマの銀行ストレステストなどで約3年誤魔化してきましたが、財政も破綻気味、金融機関も破綻気味となると、もうあとは本質に回帰するしかない、つまり「清貧の思想」を国民に要求する意外にないのです。これが受け入れられるかどうかは人生観、文化の違いが大きいでしょう。日本はいまのところ例外的な国家のひとつのようですが、多くの先進国や新興国では暴動がまだまだ多発する恐れがあるのです。」

是非書店等で手にとってご覧になってください。定期購読に値する月刊誌です。
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