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2011年12月22日木曜日

まほうのぴあの-復興支援コンサート

日頃お世話になっている京橋の抜群に(!)美味しいイタリア料理タヴェルナグスタヴィーノTaverna GUSTAVINOさんの御紹介で、フォルテピアノなど古い鍵盤楽器を得意とされているピアニスト(フォルテピアニスト)丹野めぐみさん(ブログ末尾に別公演のyoutubeを御用意しました)のリサイタルにお邪魔してきました。

古い鍵盤楽器の音色

使用楽器は1820年頃制作されたJohann Georg Grober(←スミマセン、ウムラウトの表示の仕方がわからなくて・・・)、、、何と5本のペダルがあり、それぞれ特徴のある弱音機能であることを、演奏前のミニトークで丹野さんが実演含め解説してくださいました。うち、一本はペダルの渾名(あだな)がファゴットという現代のピアノには受け継がれなかったものです。

オーケストラ音楽同様、産業革命とともに、演奏規模もホールの収容人数も巨大化するなか、鍵盤楽器も大きな音を響かせるべきという価値尺度で進化していってしまったのでしょう。古楽器とはある種のシーラカンスかも知れません。ユニークなべダル機能のほか、ピアノ線が鍵盤に向かって全て垂直という意匠も特徴です。これを「平行弦」と呼ぶそうで、現代のピアノは、やはり音を大きく響かせるための工夫として、弦を平行ではなくクロスさせることが定着しているようです。

貴重な古楽器が200年近く丁寧にメンテナンスされ、演奏会場に運び込まれただけでも、演奏者の丹野さんをはじめ、スタッフ、主催者の皆さんの努力は相当なものだとわかります。

一言で言うと、ピアノの音、、、これもメーカーや型番、品番でかなり違うのですが、、、を日本の箏(こと)の音色に近づけたような印象で、ひとりだけクリスマスをすっ飛ばして正月を迎えた気分に酔いしれることができました(笑)。

作曲家の調性へのこだわり

丹野さん自身によるプレトークの内容は、古楽器の説明のほか、クラシック音楽における「調性」の話でした。

グスタヴィーノでいただいたちらしからはそんな内容の話が聴けるとは思わずびっくりしたのと、そういう意図なので、前半のプログラムの曲順が普通の演奏会ではありえない独特のものになっていたのです。

①バッハ「平均律」(第一集)ハ長調
②バッハ「平均律」(第一集)ハ短調
③シューベルト「即興曲」(作品90)第2曲 変ホ長調
④クララ・シューマン「前奏曲とフーガ」(作品16)第2曲 変ロ長調
⑤シューベルト「即興曲」(作品90)第4曲 変イ長調
⑥クララ・シューマン「前奏曲とフーガ」(作品16)第1曲 ト短調
⑦シューベルト「即興曲」(作品90)第1曲 ハ短調


本来は順番に弾かれる「組曲」が分解され、順番も逆転されたりしているのです(ただし上記①⇒②は本来通り)。

しかし、これらの楽曲を聴き慣れているひとも、そうでないひとも、たぶん何の違和感もなく、幻想的な転調の世界にひきづり込まれていったのだと思います。

あとで申し上げるように、冒頭の調性だけを並べてもあまり意味がないのですが、これら7曲がすべてフラット(♭)系の曲であり、その数は、①から順番に、

0⇒3⇒3⇒2⇒4⇒2⇒3(⇒0)

となります(戻ります)。最後の⑦は、冒頭ハ短調ですが結末がハ長調(ブラームスの交響曲第一番第1楽章と同じ)。ハ長調から短転(ドをラに読み替えて短調に転ずる)して始まったフラット(♭)の旅が巡り巡って最後は逆に長転(ラをドに読み替えて長調に転ずる)で我が家に戻ってくる形です。

ただ、この旅程は、見た目ほど綺麗で順調というわけではありません。シューベルトの曲名は文字通り「即興曲」ですが、バッハの平均律も、またそれと同じ題名である(バッハに対する明らかなオマージュである)クララの作品も、同じように即興的であり幻想的であります。

予定調和と即興性

バッハという作曲家は、以降のウィーン古典派の作曲家(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなど)やロマン派の作曲家(シューベルト、シューマン、、、、ブラームス、リスト、ショパン、、、)と対比させて、「神の音楽である」「予定調和の世界」「同じ動機が曲の何処をとっても現れていて“金太郎飴”」などと、一般には説明されるようです(出典「NHK教育テレビ『坂本龍一スコラ音楽の学校』」)。

バッハの鍵盤曲のなかで、「フランス組曲」「イタリア協奏曲」「パルティータ」「インヴェンションとシンフォニア」などは、確かに、各曲の後半部分の激しい転調部分も含めて、予定通りの、パターンに適った調性進行が殆どです。特に、「ゴルトベルグ変奏曲」も、変奏曲という定義上、大胆な調性進行はありえません(ただし例外的なト短調の3曲中3曲目のみ極端な前衛性があらわれています)。

今回冒頭で演奏された平均律第一集の最初のハ長調の曲も、それを「カバー」したグノーのアヴェマリアのお陰でわたくしなんかは和音進行を何とか記憶できるくらいで、平均律の各曲は、バッハの他の作品と比べて遥かに、「楽譜を見ずに鼻歌が歌える」程度に覚える、慣れ親しむのが難しい、、、特にマニアックな曲となると、例えば平均律第二集の変イ長調のフーガは、終結部直前の数小節はイ長調【正確に言えば変変ロ長調・・・フラット(♭)が9つ】にまで転調され、激しさにも程があると思うし、予定調和だとも思いません。

ピアノ音楽の旧約聖書と言われる平均律は、バッハの鍵盤音楽の最高峰であることは間違いないですが、最もバッハらしい音楽とも言えると同時に、最もバッハらしくない(即興性と前衛性に溢れ過ぎた)音楽とも言える、両極端を内包した存在です。

シューベルトの即興曲も、もうひとつの作品142が「第2曲を除いた3曲はピアノソナタと捉えるべき」とシューマン(旦那ロベルトのほう)が言ったとおり・・・わたしには第3曲の有名な変奏曲を敢えて除くと残りの3曲はベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」へのオマージュだと思えます)整然とした調性進行に基づいているのに対し、今回演奏していただいた作品90は、即興演奏という意味ではないにしても、実に思いついた通りの大胆かつ自由奔放な調性進行のため、バッハとクララの対位法の作品との相性が意外なほど良好なのです。

楽譜出版の生業(なりわい)とクラシック音楽の調性

絶対音感のないわたしがこれまでにも何度か生意気にクラシック音楽の調性について書かせていただいてきました。
ドンジョヴァンニ~変装と転調の妙なる調和

「愛の調べ」も転調が妙薬に~シューマンの職人技
愛の調べの第二楽章
これまで書きつづったことは、実は相対音感だけでも理解し楽しめる内容です。最後に、絶対音感(または楽器演奏上のテクニックの問題に対する理解)がないとピンとこない話に触れます。

昨日、丹野さんがプレトークで面白い話をされていました。上記7曲に漏れていてアンコールにまわされたシューベルト「即興曲」作品90の第3曲は、変ト短調(♭が6つ)で書かれており、楽譜の出版業者から、「フラットが6つもあると楽譜の売れ行きが悪くなるから、(半音あげて)ト長調(♯1つだけ)に書き換えてくれ」と圧力を受け、それに甘んじて書きなおした(が後年改めて作曲者原案に戻された)というエピソードです。

短い人生にもかかわらず1000曲前後の作品を残した多産のシューベルトにとって、生前楽譜の売上と生計に貢献したのはアヴェマリア一曲だけだったという話も聞いたことがあります。そこまでの生活苦があったればこそ、一度は調性の変更(移調?)を受け入れたのでしょうが、クラシック音楽にとって半音の違いは実は一番大きな違いであり、いくら銭金(ぜにかね)に関わる話とは言え、シューベルトの魂を著しく苦しめたのは想像に難くありません。

ちなみに、初版の楽譜は、作曲家の意図せざるト長調であったことだけでなく、この曲全体の雰囲気を大きく変える、左手アルベッジョのひとつの音が改訂版と異なっています(繰り返される動機なので、実際には何か所か現れます)。右手動機を移動度で言うと「ミ~ミミミ~ド~」、これに対する左手は、初版では繰り返しの前後問わず、ド+ミ+ソで構成されていたのが、現在我々が耳にする分散和音は、繰り返し後、上記下線部分が、ド+ミ+♯ソに改訂されているものです。

この一音の改訂、、、「経過音」化、これまたたった半音の違いです、、、が、ドイツロマン派のど真ん中的存在であるシューベルトが、ショパンやリストなど後期ロマン派の鍵盤音楽への見事な架け橋になっているような気がします。


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2010年7月16日金曜日

「愛の調べ」も転調が妙薬に~シューマンの職人技


「愛の調べ」とは、クララ=シューマン役のキャサリン=ヘプバーンの驚異的熱演を忘れることが出来ないシューマン夫妻(・・・とブラームスとリスト・・・)の物語です。

http://www.amazon.co.jp/dp/B000LXIOKO

この映画の中で、最も重要な音楽作品がロベルト=シューマンが作曲した歌曲集「ミルテの花」の第一曲目「献呈」と考えて良いでしょう。

http://www.youtube.com/watch?v=aMYT3wyFz1o

転調シリーズ(!?)前回の

ドンジョヴァンニ~変装と転調の「妙なる調和」
の最後のほうに、モーツァルトが晩年ドンジョヴァンニ作曲時に到達した

臨時記号(♯、♭、♮)を一度に4つも加えて調性をワープさせる

という技法が、その後、ロッシーニやドニゼッティなどイタリアオペラの礎を築いた大作曲家が主として喜劇の分野で効果的に使ったというお話をしました。

一方、この時代のイタリアオペラ、特に喜劇を忌み嫌った作曲家が居ました。シューマンこそがその人です。確かに、「ミルテの花」だけでなく「詩人の恋」や二つの「リーダークライス」を聴くにつけ、オーソレミオ的なオペラブッファとは相容れない価値観を感じることは出来ます。

しかし、この「献呈」、ハイパーリンクを貼った映画の一場面ではピアノ曲として(前半がリスト編曲の言わばヴィルトゥオーゾ版、後半がシューマンの原曲~いずれも実際に弾いているのはルービンシュタイン)では、ドイツリートの中でも珍しい、その臨時記号4つによる調性のワープが見事に組み込まれているのです。

ハイパーリンクからyoutubeに這入っていただきますと、サリエリに似た男(と思うのは私だけ!?これがフランツ=リスト役の俳優です)が、シューマン夫妻とブラームスの前で、自分の編曲を「献呈」するシーンが出て参ります。

「どうだ、凄いだろう」と自慢げに弾くリストを尻目に、クララがロベルトに「違うわ・・・」と耳打ちをする場面。この一瞬で、♭が4つついているのです。

この「献呈」という曲も、短い歌曲には良く見られる

A⇒B⇒A’

という形式で出来ています。いま申し上げた♭4つは、AからBに移る瞬間に追加されています。

A⇒B⇒A’という形式の小品は、短い歌だけでなく、バッハの時代以前の舞曲(メヌエットやロンドなど)や、モーツァルトのオペラの中のアリアや重唱でも極々普通に見られますが、その殆どは、AからBに映るときに臨時記号がひとつだけつく転調です。

(例:ドンジョヴァンニから「手に手を取って」)
http://www.youtube.com/watch?v=GY-_3oCnqtY
(シエピ+フルトヴェングラー)

「献呈」の形式美の斬新さは、移動度で読めば、「ド」で終わるAの部分から、その同じ音を「ミ」に読み替えて、すんなりと別世界に聴衆をいざなう点がひとつ。

じつはもう一つのほうが凄いのです。

リストがノリにノッて「献呈」リスト版を演奏しているのに、クララは「技巧だけじゃない」と不満を言いますが、それに対してロベルトが「静かに。・・・面白いじゃないか」とその場をおさめる場面。ロベルトの

It's interesting...

という瞬間が、Bの部分の冒頭の臨時記号の4つが丸々全部取り外される瞬間なのです。

通常、A⇒B⇒A’という形式の曲であれば、最後のA’に移る直前(の1小節)で転調が解除されます。It's interestingの瞬間たるや、再現部A'の開始の、、、ずいぶん前、、、なのです。

シューマンほど、自分の個性や才能の発露を禁欲する一方で、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンの作品を、作曲の技術の集合体として研究しつくして、一歩ずつ上を目指そうと努力した作曲家はなかなか居ないと思います。その作品のユニヴァースの中にあっても、「献呈」の、特に二番目の転調のタイミングと主旋律への練り込み方は、頭ひとつ抜きん出ていると思います。

映画の冒頭にもあるように、クララへの求婚のメッセージとして作られた「献呈」は、感嘆すべき職人技で練り込まれた愛の妙薬だった。。。

愛の妙薬だなんて言うと、泉下のシューマンの逆鱗に触れるでしょうか。ロッシーニら、当時のオペラ作曲家の売れっ子たちへの批判、非難は、子供向けに作られたピアノ曲集「ユーゲント・アルバム」の序文でハッキリと表明されており、「メロディー偏重のイタリアオペラなど聴く暇があったら、バッハの平均律を練習しなさい」らしきことを書いております。

まあ、私はどちらも均等に好きですが・・・

映画「愛の調べ」は、ブラームス問題など、史実とはかなり異なる美談に仕上げられていることでも有名です。いわんや細部に至っては事実がどうだったか判ったものではありませんが、映画監督や音楽監督など制作側が物凄く丁寧に作っておられますので、リストがシューマン=リスト「献呈」を弾く前に「シューマン教授の素晴らしい『メロディー』に・・・」という科白に、ある種の皮肉を込めた可能性はあります。

この映画で触れられているのは、リストが音楽家シューマンの良き擁護者であり支持者であること(ただし、結婚に関わる裁判でクララとロベルト側に立った事実はない)だけですが、もうひとつ、「イタリアオペラもそんなに非難に値するものじゃないよ」と言ってシューマンとロッシーニとの仲裁に乗り出した(が無駄な努力であったこと)、リストはシューマンを高く評価していたが、シューマンはリストを評価していなかったなどなど、いろいろあります。

シューマンが評価をしたのは、リストではなく、ショパンでした。「脱帽せよ。天才が現れた」と最大限の賛辞を贈らせたきっかけになったショパンの曲は作品番号2番の、ドンジョヴァンニの主題による変奏曲です。

主題とは先述の「手に手を取って」
http://www.youtube.com/watch?v=QNGQu0aRqAY
http://www.youtube.com/watch?v=kuxSL_dzzWM&NR=1

「序奏のLargoが長すぎる。テーマは何時始まるんだ!?」と気の短い方の為に、お伝えすると、、、6分30秒過ぎであります。

2010年7月13日火曜日

「転調」だけではなかった“妙なる調和“-モーツァルト歌劇「ドンジョヴァンニ」

きのうの記事の続きです。


関連記事
マスカーニ作曲 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」
http://phxs.blogspot.com/2008/12/blog-post_24.html
ドニゼッティ作曲 歌劇「愛の妙薬」
http://phxs.blogspot.com/2008/12/blog-post_7392.html
プッチーニ作曲 歌劇「蝶々夫人」
http://phxs.blogspot.com/2008/12/blog-post_1910.html
ヴェルディ作曲 歌劇「イル・トロヴァトーレ」
http://phxs.blogspot.com/2008/12/blog-post_3365.html

「転調」とは違うのですが、モーツァルトは、フィガロの結婚で、妙なことをやっています。これは前例があるかどうか確かめておりません。

オーケストラ伴奏と歌とで、調性が違うのです。但し、遠い調性では不可能なので、5度違うだけ(臨時記号1個分に過ぎない)です。

問題の箇所は3幕フィナーレ
http://www.youtube.com/watch?v=hiGubCkAwu4

Eccola marcha andiamoで始まるフィガロの独唱の12小節。オペラらしくない単調なガヴォットにしか聴こえない割には、難しい箇所なのです。

したがって、オケだけ聴くと別の舞曲のように聴こえます。

場面は、ドンジョヴァンニ同様(!?)放蕩児のアルマヴィーヴァ伯爵の怒りを無視して、家来であるフィガロがスザンナとの結婚式を急ごうとし、「ほら、結婚行進曲が流れてきたじゃないっすか。皆さん、参りましょう」という場面。

夫婦関係が冷め切っているにもかかわらず嫉妬心と猜疑心だけは立派に持っている伯爵。その怒りに火がついたのは、その妻(伯爵夫人)と小姓ケルビーノとの関係を疑惑すべき証拠が、スザンナの伯父である庭師アントニオによって暴露されたからです。
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2010年4月27日火曜日

チェルノブイリ24周年救援キャンペーン「チャリティコンサート」ご来場の御礼

先週4月24日(土)東京都文京区の「文京シビック小ホール」で行われましたチャリティコンサートには大勢のお客さまにお越しいただきまして、本当にありがとうございました。

私は、愛好家の端くれとして、実業界の端くれとして、舞台の末席を汚すこととなりましたが、声楽と器楽のそれぞれの分野において国内外で活躍されているトップクラスのプロ演奏家の皆さんとの競演を、会場埋め尽くすお客さまに、温かくお見守りいただいたことが、何よりも勇気の素となりました。

舞台袖で、当日の主役であるコロラトゥーラソプラノでウクライナの民族楽器バンドゥーラ奏者でもあるオクサーナ=ステパニュックさんが「ここのホールは響きがとても悪い。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場はもっと良く響くのよ。。。」と耳打ちしてくれました。メトの舞台に立った経験のあるトッププロが文京シビックの小ホールでチャリティの為にひと肌脱ぐというのは純粋なボランティア精神です。

実は、オクサーナさんとの合同練習はお互いの時間制約もあり、一度だけでしたが、時まさにウクライナの大統領選の決戦の最中でありまして、彼女は、出身国ウクライナで、オレンジ革命以降、反ロシア路線を主導した当時現職首相の大統領候補ティモシェンコ女史の髪型を真似て、同女史の応援団の一員との主張をしていました。

ちょうど今、英FT紙が臨時ニュースで伝えたところによると、ロシアのプーチン首相がイタリア訪問の帰りにウクライナの首都キエフに立ち寄り、ティモシェンコを僅差で破った親ロシア派のヤヌコヴィッチ新大統領に「ロシアとウクライナの両国の原子力発電事業を統合し、近隣諸国への電力輸出も展望した事業拡大を一緒にやろう」との提案を持ちかけたそうです。

「もしこの提案をウクライナが受け入れれば、(永年、ロシアからの“いじめ”の道具に使われてきた)天然ガスのウクライナ向け価格を30%引き下げる」という飴をちらつかせているとのことです。

在野のティモシェンコ陣営としては、何に引き換えても、条約批准を阻止したいと怒りを爆発させている要因のひとつに、同提案が、こともあろうに、チェルノブイリ原発事故の記念日と重ねてなされたことがあります。ウクライナの政治が親ロシアに抜本的に軌道修正されるのかどうかを、前代未聞の「踏み絵」を通じて確かめたいという、まさにプーチン流のマキャヴェリズムの真骨頂のあらわれです。

何も、鳩山政権に限ったことではなく、プーチンのようなタイプのような政治家が長らく日本には登場していないことが、良くも悪くも、日本の政治世界の特徴と言えそうです。しかし問題は、様々な世界の不均衡から発生しうる災害から、日本だけが鎖国的に振る舞うことで逃れることが出来ない次元になっていることです。

例えば、金融の世界的不均衡もリーマンショック以降たいして解決されていません。また、核エネルギーを含めエネルギー問題も然り。加えて、戦争やテロなど、人類が築き上げてきた文明の自己破壊力ともいうべき人間疎外と脆弱性のマグニチュードは、既に人間自らが制御できない域に達してしまい、今直ちにはそれを抑制したり革命的な技術発展によって解決したりすることが出来無さそうだということです。

これまでは我が国に潤沢な外貨をもたらし、食糧自給率が低くても、高齢化が進んでも、何とか生活水準を落とさずに済んできた日本ですが、そのエンジン部分である外需頼みの製造業も、金融の不均衡や、核依存が決して低いと言えないエネルギー供給という隘路など、様々な外生的要因、すなわち不可抗力により苛まれる恐れが高まっています。

繰り返しになりますが、既述の「今直ちに、革命的な技術発展によって解決できない」という前提に立てば、「少子化が問題だ」「温暖化が問題だ」と頭ごなしに洗脳されていて良いものかどうか、そんなことをチェルノブイリという史上最悪の原発事故の周年において、私は考えさせられました。日本と同一程度の生活水準にある国の中には、人口密度が非常に低いことなどもあり、自然との調和、生態系のなかでの恒常的な循環を見事に果たして、電力重要などを水力や風力で相当程度賄えている国も少なくありません。史実に関する争いがないわけではないですが、我が国の歴史を振り返っても、近世までは所謂「間引き」の慣習が殆どの地方で存在したこと(例外はキリスト教や浄土真宗の影響が強かった地域か?)を思い起こしたり、年金制度は空気の如くあって当然のものだという考え方を一度疑ってみることで、本来であれば日本人のお家芸だった筈の、エコロジー社会という価値観が再び発信できるように、社会設計を見直す時期に来てしまっているのではないかという思いを深くさせられました。

そのような思い、関心と、勇気を同時に与えてくれたのが、チャリティコンサートを舞台裏で支えてくださった20人を超える「チェルノブイリ子ども基金」のボランティアの皆さんです。「慣れてないのでご迷惑をお掛けするかも」とおっしゃった舞台監督さんをはじめ、ホワイエでお客さまの案内から物販まで何から何までてきぱきとこなされたボランティアの皆さんとのひと時は、疲れ切った声帯に最高の栄養を与えてくれました。様々な形の舞台があるのですが、打ち上げがこれほど盛り上がり有意義だったのは初めてです。

全ての関係者に感謝。本当にありがとうございました。
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2010年4月22日木曜日

チェルノブイリ写真展と読書感想文

私のブログのせいでは全くないと思いますが、紙媒体にとって厳しい時代になってきています。それ以前に、本当の意味で良心的な雑誌というのは、採算として成り立ちづらいものでした。これは定期購読をしなければ、、、更に余裕がもしあればもっと支援をしなければ、、、そういう雑誌に出会いました。

先日のブログでご紹介した私の中のユダヤ人の著者のルティさんの元旦那様であるフォトジャーナリストの広河隆一さんのチェルノブイリ写真展が昨日から文京シビックの1F展示室Aで開催されています(明日の金曜日まで。土曜日は作品の一部を、同 文京シビック小ホールのホワイエに飾られるそうです)。私は、金融庁検査の合間を見て、土曜日のチャリティコンサートでチャリティ販売用に寄付する「フェニックス証券特製エコバッグ」と私の著書為替力で資産を守れ を両手に抱え、昨日ほんの30分ほど御邪魔してきました。

私にとっては馴染みのある写真の数々のほかに、広河隆一さんが責任編集されているフォトジャーナリズム雑誌DAYS JAPANの最新号がありました。なにものかが脳天から突き刺さるほどの衝撃を覚える、読まずにいられない雑誌だと思いました。チェルノブイリに関心が強いみなさまもそうでないみなさまも、是非是非、一目見に来てください。コンサート以外は入場無料で、今日も明日も午後8時までやっています。

もうひとつ、少なくとも定期購読をして勉強を続けたい、それこそが支援になるのならこれほど嬉しいことはないと思える雑誌が月刊FACTAです。なんと、と取り立てて騒ぐほどではないのですが、私が巻末に感想文を書かせていただいております。毎月のことながら、タイムリーかつこの上ない刺激的でインテリジェントな情報満載の月刊ファクタを、是非是非書店にてご購入ください。
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2010年4月9日金曜日

私のなかの「ユダヤ人」

氷は融け始めると、徐々に融けるペースが加速していきます。秋の日の釣瓶(つるべ)落としの如きその様子は、氷の「表面積÷体積」という比率がどんどん大きくなっていくからです。いまの自民党の状況を「融解が始まった」と譬える多くの諸先輩に、今週出会うことが出来ました。

かつてこのブログで取り上げた中曽根康弘氏を筆頭に、現在「立ち上がれ日本」を立ち上げようとしているメンバーのひとりも含め、これまで自民党の要職にあった多くの政治家が、「日本は単一民族国家だから、云々」という失言を、驚くほど性懲りもなく、繰り返してきました。

保守主義というものは、往々にして、市場原理主義だけでは満足せず、伝統や宗教、民族の矜持という要素が漏れなく付随してくるので、仕方の無いことだったのかも知れません。問題は、「日本は単一民族国家だから、云々・・・」の「云々」の部分です。それらの失言の多くは、やれ、だから「教育水準が高い」だの「文化水準が高い」だの「知的水準が高い」だの、挙句の果てには「世界に冠たる国力を持つことができた」などと、昭和の価値観というアナクロニズムに酔い痴れたものが殆どなのです。

少数民族の融和を進めるべきかどうか、とか、言語の統一を徹底すべきかどうか、については一長一短があります。それを措くとしても、失われた20年を経ての今日の日本は、自民党の古臭い政治家の多くが安住、虚栄してきた「単一民族国家」もどきの負の部分のほうが噴出してしまっていると認識すべきではないでしょうか。

勿論、子ども手当がベストの政策であると申し上げているわけではありませんので、念の為。

このようなことを考えさせられたきっかけのひとつが、冒頭、「自民党の融解が始まった」と口々に説明をされた、現役の政治家の先生や高級官僚や経営者諸先輩の本音トークでした。これから先の日本に対する徹底的な悲観論で満場一致となったものの、何故か却って意気軒昂とならなかったのは、「政治家としては自分に嘘をついてでもポピュリズムに迎合しないと選挙に勝てない」一方、「官僚としては自分に嘘をついてでもイエスマンを続けないと偉くなれない」。。。つまり政治も行政も、判っていながら、日本を変えられない、悪い方向にどんどん行っているのを抑止するどころか傍観、放置しているという現状でありメカニズムであるということです。

そして、もうひとつのきっかけは、ワイナリーツアーに御参加いただいた中で、ユダヤ系ポーランド人の御両親のもとに生まれたフランス国籍で日本在住のルティさんとの出会いです。

過去の自民党幹部の問題発言を批判しつつも、「単一民族国家」という表現が、一定の程度においては当て嵌まる日本の微温湯(ぬるまゆ)では想像も出来ない「ユダヤ人とは何か?」「国籍とは何か?」「シオニズム」「戒律」等々の問題と真剣に取り組まなければならなかった女性の半生の実録を、今週一気に読了しました。

「私のなかの『ユダヤ人』」

行政の故意なのか過失なのか判らない理由で、長い間、無国籍状態を強いられた逸話に始まる同書は、御両親がどのようにして辛うじてナチスを逃れたか、そして「ユダヤ人の正史」から削除されている本当の起源に纏わる話など、コンパクトながら意味深長な内容が満載ですが、私を最も魅了した箇所は、イスラエルで生まれフランスで育った彼女が、どのようにして執筆当時彼女の夫であった広河隆一さんとの出会ったのかという部分です。シオニズムの実像と併せ、広河隆一さんのような日本男児、、、、草食系が跋扈する(若者だけでなく、既述のとおり、政界や官界も!)なかで、本物の肉食系に出会えた気がしました。

最後に、宣伝。体を張ってパレスチナ問題やチェルノブイリ問題などを追い掛け続ける広河隆一さんの 写真展4/21(水)~23(金)、文京シビック1階で行われます。そして、翌4/24(土)13:30~わたくしも登場する「チェルノブイリ24周年救援キャンペーン 最新現地報告&チャリティコンサート」です。
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2010年2月18日木曜日

二代 半泥子の焼物展@大丸東京店10階「美術画廊」

明日2/26(金)15:00~陶芸家 二代川喜多半泥子 自身によるトークを行なって頂けることになりました。私も同席する予定です。是非お集まりください入場無料で、眼の保養になりますよ。ただし作品は無料ではありませんので、念の為。

作陶を初めて30余年余り。祖父の名を継いで9年。
自然の摂理や生命の息吹が感じられる焼物にこだわり、制作活動を続ける「二代 半泥子」こと川喜田敦さんが、久方振りに東京で展示会を開催されます。
http://www.daimaru.co.jp/tokyo/bijutsu/index.html

川喜多敦さんは、三重県のトップ地方銀行である百五銀行の初代頭取のお孫さんでいらっしゃいます。若干50歳で頭取を辞任して、陶芸に没頭した「初代 川喜多半泥子」の二代目を敦さんが襲名されたて約10年。自由奔放な無手勝流の作風には、「昭和の光悦」とも「東の魯山人、西の半泥子」とも賞された初代半泥子の多才(多彩)なDNAが感じられます。

川喜多敦さんとわたくしの出会いは高校時代。通っていた高校には黙って入団していた社会人合唱団の音楽監督としてでした。ご実家や窯に何度も呼んでいただき、熱心に音楽の指南を受けたこと、もう25年も立ちますが津市内での初の個展にも呼んでいただいたのでありました。

実は、川喜多敦さんが現在活躍されている窯は、わたくしの高校時代の窯とは別の場所にあります。津市安濃町中川という場所ですから、わたくしの実家と同じ旧 三重県安芸郡なのであります。鉄道も通らない何もない村ですが、土だけは良いのですね。

「二代 川喜多半泥子の焼き物展」
≪会場≫大丸東京店10階美術画廊
≪会期≫2月24(水)~3月2日(火)最終日は午後5時閉場

東京駅に隣接する大丸東京店と外堀通りを挟んだ向かい側にありますフェニックス証券の店頭にお越しいだければ、「二代 川喜多半泥子の焼き物展」の御招待状をお渡し致します。どうぞ、ついでにお越し下さい。
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2009年11月23日月曜日

女のみち♪~「完結編」

某FX関連ポータルサイトで特集されておりました七転び八起きの「生い立ち」が本日4回目の掲載をもちまして完結致しました。
第4回:資産運用のためのFXを目指して
バックナンバーとあわせて、御笑読(ごしょうどく)ください。

それと、、、

11/20(金)に更新致しました田中良茂ピアノリサイタル♪の記事に関しまして、重要な追加事項がございます。

来たる2010年1月18日(月)に大活躍される田中良茂さんは、その先、4月24日(土)文京シビックホールで開催予定のチェルノブイリ子ども基金主催のチャリティコンサートで、こんどはピアノ伴奏としてボランティア出演をしてくださる予定です。昨年12月フェニックス証券主催チャリティ・オペラ・コンサートで大活躍してくださった我が国を代表する新進気鋭のヴァイオリニスト印田千裕さん にも妙技をご披露していただくほか、オペラティックなレパートリーにも絡んでいただく予定です。七転び八起きも少々お手伝いさせていただく予定であります。読者の皆さん、是非両日とも空けておいてください。

詳細未定につき、追ってお知らせして参りたいと存じます。日本で良く知られた歌の数々を、オペラ分野からはヴェルディ作曲「椿姫」をハイライトでお届け出来ればと考えております。
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2009年11月20日金曜日

田中良茂ピアノリサイタル♪♪


「ベートーヴェンの時代のピアノ協奏曲は演奏会の華であった。」

が、その一方で、

「19世紀、ピアノ協奏曲は室内楽編曲版でしたしまれていた。」

と。

これは、新進気鋭のピアニスト、田中良茂さんが中心となり、世界初演を含むベートーヴェンの室内楽版ピアノ協奏曲が連続公演される企画を推薦・協力されている西原稔桐朋学園大学教授の言葉です。

努力と才能の結晶としての音楽をより身近に♪♪そのようなコンセプトの企画をフェニックス証券は微力ながら応援します。

2010年1月18日(月)東京オペラシティ・リサイタルホール(京王新線初台駅東口)
開場18:30
プレトーク19:00
開演19:15
ベートーヴェン作曲(小林寛明編曲)ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品19
(ピアノ&コントラバスを含む弦楽五重奏)

ベートーヴェン作曲(ヘッシンガー&ベートーヴェン編曲)ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58
(ピアノ&ヴィオラ2本を含む弦楽五重奏)

チケット/一般:4500円、学生2500円

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