明けましておめでとうございます。
新年早々の三題噺、「ストラディバリと『食べログ』は、わかるけど、尾上縫(おのうえぬい)は何故だ?」と思われるでしょう。
正月明け、ネットとメディアを騒がせているのは、「一個(一台?一本?)何千万円~何億円もすると言われるヴァイオリンの名器『ストラディヴァリウス』や『グァルネリ』が、現代の安い量産ヴァイオリンと比べて音色の差が殆どない。場合によっては現代のもののほうが評価が高い」というニュース 。
そして続いて出たのが上場会社カカクコムが運営していて飲食店や「地域名 ランチ」などで検索するとほぼ間違いなく上位に出てくる口コミサイト「食べログ」のやらせ疑惑です。
フェイスブックなどソシアルメディアの閲覧数や「いいね!(Like)」ボタンの押される回数みたいなものですら、ワンクリック幾らとかで売り買いされる時代だそうですから、SEO対策などで宿敵ぐるなびを戦慄させてきた「食べログ」に限らず、およそ「口コミサイト」なるもの、多かれ少なかれ「やらせ」はあるのだろうと読者の皆さまは既に賢察のことと思います。
現状、記事によれば、カカクコム自身はインフラを提供しているだけであり、やらせ業者を取り締まり監督規制する立場であることを明確にしています。
ここは実に重要で、外国為替証拠金(FX)取引の世界で、広告の大半を占めているアフィリエイトは、個人ブロガーはさておき、比較サイトや口コミサイトは、それ自体がやらせであり、人気順位を売買させていることがはっきりしているからです。
そのことの是非については、金融先物取引業協会でも、のらりくらりと議論されているようなのでそちらに譲るとしましょう。アフィリエイトという何となく洗練された外来語が「やらせ」という直截な言葉に置き換えられようとしている事実だけで、アフィリエイトモデルに依存してきた多くの業者や周辺産業の人々は「ああ、来るべき時が来たな」と観念することでしょう。
ヴァイオリンの話に戻すと、東京の郊外にあり、比較的多くのヴァイオリン奏者を育成輩出することで知られる音楽大学では、一個(一台?一本?)500万円以下の単価のヴァイオリンのことを“ゴミ”と称する習わしがあると聞いたことがあります。そういう価値観を成り立たせている教員や学生の耳こそまさしく“ゴミ”であるとわたくしは言いたいです。
・・・・・ヴァイオリンは一個でも一台でも一本(※)でもなくて、一丁と数えるそうです。豆腐と一緒です。。。。。(※)「あるオーケストラのなかでヴァイオリストが何人いるか?」という文脈では何本と使うようです・・・・・
良きにつけ悪しきにつけ、スティーヴ・ジョブズが圧縮音源によってアナログ音楽や生の音楽のビジネスモデルを破壊した一面があります。が、その敗者の代表格ソニーは、プロモーション・ビデオ(≒MTV)で「口パク(くちパク)」の歌と音楽を一般大衆に許容させてしまっていて、いまや天下のNHKですら平気で「口パク」歌手を紅白歌合戦の大舞台に立たせるほど寛容になっています。
メット文明の便利さは捨てがたい反面、良質なマスメディアの生存確率は劇的に低下したため、ネット上で「やらせ」産業が跋扈し、大衆の耳や舌や価値観につけいる隙を与えてしまっています。
それで、何故に尾上縫なのだ?と続くところですが、後半は後ほど。要すれば、ほんとうの金持ちはブランドでは騙されない、よって自身をブランドで飾らないことによって(普通のオバサンのように振る舞うことによって)ほんとうの金持ちはこういうものだ、ほんとうにこの人はおカネを持っているんだと思わせようとした一級の詐欺師であったというお話です。
2012年1月5日木曜日
2011年12月30日金曜日
割れかけたコロンブスの卵
昨日、12/29(木)のブログで、
「欧州の危機には、統一通貨ゆえに急成長し過ぎたツケと、個別国国債の買い切りには(独立通貨国以上に)抵抗がある中央銀行の存在という特殊要因があるものの・・・・・・」
と書きました。日本のような独立通貨国でも、日銀総裁が頑固だからというだけでなく、中央銀行による国債の直接の引き受けは原則禁止なのです(「国債の市中消化の原則」財政法第5条)。
この「原則」は先進各国共通のようです。しかも「例外のない原則(で)はない」というところも似ています。つまり、いったん市中の銀行に消化された国債を、金融調整目的で、中央銀行が買い上げることは可能であり、結果としてそれを満期まで持つことも可能であり、償還と同時に借換債を購入することも可能なのです。
この抜け道に注目したのが、今月、欧州で決定されたLTRO(長期リファイナンス・オペレーション、または長期レポ・オペレーション)だと言えます。
借り換えが困難な国の国債をECBが直接買えないのは、市中消化が原則であるだけでなく、健康な国の税金で運営されている(欧州)中央銀行を病気(の国の国債)のリスクに曝(さら)すことへの愛国心的な抵抗があります。そこを、やや健康な国の銀行にまで病気のリスクが蔓延していることを奇貨として、今回はまずイタリアの国債でしたが、これを買って担保に入れることを条件に(?)、それらの銀行に金を貸してあげるという枠組みになったのです。
中央銀行が助けたいのは国の財政だが、それが直接できないから、民間の銀行を導管として使う(使われた銀行も悪い気はしない)というのは見事な抜け道ですし、コロンブスの卵です。
このコロンブスの卵、ユーロ圏では、(市中消化の原則だけでなく)自らは健康だと思っている国の愛国心を回避するためのアイデアであったわけですが、愛国心の問題を気にしなくても済む日本でも米国でも応用できるかも知れず、そうであれば、消費税のことで与党内で揉めたり、離党議員や支持率の低下で悩まなくても良いのです。
ほんとうにそうでしょうか?イタリア国債の入札が、上記理由で順調であったにもかかわらず、ユーロは対ドルでも対円でも大きく下落しています。
「欧州の危機には、統一通貨ゆえに急成長し過ぎたツケと、個別国国債の買い切りには(独立通貨国以上に)抵抗がある中央銀行の存在という特殊要因があるものの・・・・・・」
と書きました。日本のような独立通貨国でも、日銀総裁が頑固だからというだけでなく、中央銀行による国債の直接の引き受けは原則禁止なのです(「国債の市中消化の原則」財政法第5条)。
この「原則」は先進各国共通のようです。しかも「例外のない原則(で)はない」というところも似ています。つまり、いったん市中の銀行に消化された国債を、金融調整目的で、中央銀行が買い上げることは可能であり、結果としてそれを満期まで持つことも可能であり、償還と同時に借換債を購入することも可能なのです。
この抜け道に注目したのが、今月、欧州で決定されたLTRO(長期リファイナンス・オペレーション、または長期レポ・オペレーション)だと言えます。
借り換えが困難な国の国債をECBが直接買えないのは、市中消化が原則であるだけでなく、健康な国の税金で運営されている(欧州)中央銀行を病気(の国の国債)のリスクに曝(さら)すことへの愛国心的な抵抗があります。そこを、やや健康な国の銀行にまで病気のリスクが蔓延していることを奇貨として、今回はまずイタリアの国債でしたが、これを買って担保に入れることを条件に(?)、それらの銀行に金を貸してあげるという枠組みになったのです。
中央銀行が助けたいのは国の財政だが、それが直接できないから、民間の銀行を導管として使う(使われた銀行も悪い気はしない)というのは見事な抜け道ですし、コロンブスの卵です。
このコロンブスの卵、ユーロ圏では、(市中消化の原則だけでなく)自らは健康だと思っている国の愛国心を回避するためのアイデアであったわけですが、愛国心の問題を気にしなくても済む日本でも米国でも応用できるかも知れず、そうであれば、消費税のことで与党内で揉めたり、離党議員や支持率の低下で悩まなくても良いのです。
ほんとうにそうでしょうか?イタリア国債の入札が、上記理由で順調であったにもかかわらず、ユーロは対ドルでも対円でも大きく下落しています。
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2011年12月29日木曜日
2012年を占う
フェニックス証券による2012年の「公式」占いについては、来月発売の月刊FX攻略にバッチリ載せておりますので、それまで暫くお待ちください。
今朝ご紹介するのは、フィナンシャルタイムズの論稿のひとつで、元国連事務総長補(当時の国連はアナン事務総長)など国際機関の重要ポストの経験を複数持つユニークなジャーナリストであるマーク・マロック・ブラウン氏によるものです。
氏の予想は至極一般的な悲観論で、①対策の打ちようがないユーロ圏危機、②過熱してしまった中国不動産市況、③先細るインドの改革とブラジルの経済成長、④アメリカの失業と債務、、、これらすべてが来年より悪くなることはあっても、良くなることはないと言い切っています。
ただ、このような普通の結論も、単に来年一年についての占いではなく、過去何十年もの間、糊塗し誤魔化し続けようとした西側経済(※)の病巣に帰するところに、氏の達観があります。
一時しのぎの連続に遂に耐えられなくなった西側経済(※)の病巣とはなにか?
氏はグローバル化はグローバルな優勝劣敗を作り上げた。つまり、二種類の勝ち組(技術革新の担い手たちと新興国の製造業の担い手たち)と負け組(西側の中間層とブルーカラー)が産まれた。問題は、負け組連中が劇的に失った競争力と所得を、それぞれの先進諸国の政治家が、回収不能な(!)ソブリンローンと消費者ローン(または住宅ローン)で取り繕おうと、もがいててきた「成れの果て」であると分析しています。
私自身の仕事を考えてみても、パソコンからインターネット関連サービスの技術の恩恵を受け、新興国の低賃金なのに高意欲でしかも高能力の働き手のサービスを直接・間接に利用出来てきたことで、二十数年前に社会人になった頃の私の上司の働き振り「これコピーしといて」「清書しといて」・・・みたいなコスト構造が是認されていた時代・・・とは隔世の感があります。
欧州の危機には、統一通貨ゆえに急成長し過ぎたツケと、個別国国債の買い切りには(独立通貨国以上に)抵抗がある中央銀行の存在という特殊要因があるものの、ツケの本質は、一度手にした物質的に豊かな生活は失われないものだと勘違いした国々にとっては共通なのです。
ちなみに、氏の予言によれば、経済的にはより悪くなる2012年だが、政治的には意外にも静か、ただし「嵐の前の静けさ」とのことです。
(※)ウェスタンという言葉を使っていますが、日本を含みドイツを含まないようです。
(2012年3月16日追記)昨年のノーベル経済学賞受賞者の考え方【合理的期待仮説など】と似た切り口です。2011年10月11日の記事もあわせてお読みください。
今朝ご紹介するのは、フィナンシャルタイムズの論稿のひとつで、元国連事務総長補(当時の国連はアナン事務総長)など国際機関の重要ポストの経験を複数持つユニークなジャーナリストであるマーク・マロック・ブラウン氏によるものです。
氏の予想は至極一般的な悲観論で、①対策の打ちようがないユーロ圏危機、②過熱してしまった中国不動産市況、③先細るインドの改革とブラジルの経済成長、④アメリカの失業と債務、、、これらすべてが来年より悪くなることはあっても、良くなることはないと言い切っています。
ただ、このような普通の結論も、単に来年一年についての占いではなく、過去何十年もの間、糊塗し誤魔化し続けようとした西側経済(※)の病巣に帰するところに、氏の達観があります。
一時しのぎの連続に遂に耐えられなくなった西側経済(※)の病巣とはなにか?
氏はグローバル化はグローバルな優勝劣敗を作り上げた。つまり、二種類の勝ち組(技術革新の担い手たちと新興国の製造業の担い手たち)と負け組(西側の中間層とブルーカラー)が産まれた。問題は、負け組連中が劇的に失った競争力と所得を、それぞれの先進諸国の政治家が、回収不能な(!)ソブリンローンと消費者ローン(または住宅ローン)で取り繕おうと、もがいててきた「成れの果て」であると分析しています。
私自身の仕事を考えてみても、パソコンからインターネット関連サービスの技術の恩恵を受け、新興国の低賃金なのに高意欲でしかも高能力の働き手のサービスを直接・間接に利用出来てきたことで、二十数年前に社会人になった頃の私の上司の働き振り「これコピーしといて」「清書しといて」・・・みたいなコスト構造が是認されていた時代・・・とは隔世の感があります。
欧州の危機には、統一通貨ゆえに急成長し過ぎたツケと、個別国国債の買い切りには(独立通貨国以上に)抵抗がある中央銀行の存在という特殊要因があるものの、ツケの本質は、一度手にした物質的に豊かな生活は失われないものだと勘違いした国々にとっては共通なのです。
ちなみに、氏の予言によれば、経済的にはより悪くなる2012年だが、政治的には意外にも静か、ただし「嵐の前の静けさ」とのことです。
(※)ウェスタンという言葉を使っていますが、日本を含みドイツを含まないようです。
(2012年3月16日追記)昨年のノーベル経済学賞受賞者の考え方【合理的期待仮説など】と似た切り口です。2011年10月11日の記事もあわせてお読みください。
2011年12月22日木曜日
まほうのぴあの-復興支援コンサート
日頃お世話になっている京橋の抜群に(!)美味しいイタリア料理タヴェルナグスタヴィーノTaverna GUSTAVINOさんの御紹介で、フォルテピアノなど古い鍵盤楽器を得意とされているピアニスト(フォルテピアニスト)丹野めぐみさん(ブログ末尾に別公演のyoutubeを御用意しました)のリサイタルにお邪魔してきました。
古い鍵盤楽器の音色
使用楽器は1820年頃制作されたJohann Georg Grober(←スミマセン、ウムラウトの表示の仕方がわからなくて・・・)、、、何と5本のペダルがあり、それぞれ特徴のある弱音機能であることを、演奏前のミニトークで丹野さんが実演含め解説してくださいました。うち、一本はペダルの渾名(あだな)がファゴットという現代のピアノには受け継がれなかったものです。
オーケストラ音楽同様、産業革命とともに、演奏規模もホールの収容人数も巨大化するなか、鍵盤楽器も大きな音を響かせるべきという価値尺度で進化していってしまったのでしょう。古楽器とはある種のシーラカンスかも知れません。ユニークなべダル機能のほか、ピアノ線が鍵盤に向かって全て垂直という意匠も特徴です。これを「平行弦」と呼ぶそうで、現代のピアノは、やはり音を大きく響かせるための工夫として、弦を平行ではなくクロスさせることが定着しているようです。
貴重な古楽器が200年近く丁寧にメンテナンスされ、演奏会場に運び込まれただけでも、演奏者の丹野さんをはじめ、スタッフ、主催者の皆さんの努力は相当なものだとわかります。
一言で言うと、ピアノの音、、、これもメーカーや型番、品番でかなり違うのですが、、、を日本の箏(こと)の音色に近づけたような印象で、ひとりだけクリスマスをすっ飛ばして正月を迎えた気分に酔いしれることができました(笑)。
作曲家の調性へのこだわり
丹野さん自身によるプレトークの内容は、古楽器の説明のほか、クラシック音楽における「調性」の話でした。
グスタヴィーノでいただいたちらしからはそんな内容の話が聴けるとは思わずびっくりしたのと、そういう意図なので、前半のプログラムの曲順が普通の演奏会ではありえない独特のものになっていたのです。
①バッハ「平均律」(第一集)ハ長調
②バッハ「平均律」(第一集)ハ短調
③シューベルト「即興曲」(作品90)第2曲 変ホ長調
④クララ・シューマン「前奏曲とフーガ」(作品16)第2曲 変ロ長調
⑤シューベルト「即興曲」(作品90)第4曲 変イ長調
⑥クララ・シューマン「前奏曲とフーガ」(作品16)第1曲 ト短調
⑦シューベルト「即興曲」(作品90)第1曲 ハ短調
本来は順番に弾かれる「組曲」が分解され、順番も逆転されたりしているのです(ただし上記①⇒②は本来通り)。
しかし、これらの楽曲を聴き慣れているひとも、そうでないひとも、たぶん何の違和感もなく、幻想的な転調の世界にひきづり込まれていったのだと思います。
あとで申し上げるように、冒頭の調性だけを並べてもあまり意味がないのですが、これら7曲がすべてフラット(♭)系の曲であり、その数は、①から順番に、
0⇒3⇒3⇒2⇒4⇒2⇒3(⇒0)
となります(戻ります)。最後の⑦は、冒頭ハ短調ですが結末がハ長調(ブラームスの交響曲第一番第1楽章と同じ)。ハ長調から短転(ドをラに読み替えて短調に転ずる)して始まったフラット(♭)の旅が巡り巡って最後は逆に長転(ラをドに読み替えて長調に転ずる)で我が家に戻ってくる形です。
ただ、この旅程は、見た目ほど綺麗で順調というわけではありません。シューベルトの曲名は文字通り「即興曲」ですが、バッハの平均律も、またそれと同じ題名である(バッハに対する明らかなオマージュである)クララの作品も、同じように即興的であり幻想的であります。
予定調和と即興性
バッハという作曲家は、以降のウィーン古典派の作曲家(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなど)やロマン派の作曲家(シューベルト、シューマン、、、、ブラームス、リスト、ショパン、、、)と対比させて、「神の音楽である」「予定調和の世界」「同じ動機が曲の何処をとっても現れていて“金太郎飴”」などと、一般には説明されるようです(出典「NHK教育テレビ『坂本龍一スコラ音楽の学校』」)。
バッハの鍵盤曲のなかで、「フランス組曲」「イタリア協奏曲」「パルティータ」「インヴェンションとシンフォニア」などは、確かに、各曲の後半部分の激しい転調部分も含めて、予定通りの、パターンに適った調性進行が殆どです。特に、「ゴルトベルグ変奏曲」も、変奏曲という定義上、大胆な調性進行はありえません(ただし例外的なト短調の3曲中3曲目のみ極端な前衛性があらわれています)。
今回冒頭で演奏された平均律第一集の最初のハ長調の曲も、それを「カバー」したグノーのアヴェマリアのお陰でわたくしなんかは和音進行を何とか記憶できるくらいで、平均律の各曲は、バッハの他の作品と比べて遥かに、「楽譜を見ずに鼻歌が歌える」程度に覚える、慣れ親しむのが難しい、、、特にマニアックな曲となると、例えば平均律第二集の変イ長調のフーガは、終結部直前の数小節はイ長調【正確に言えば変変ロ長調・・・フラット(♭)が9つ】にまで転調され、激しさにも程があると思うし、予定調和だとも思いません。
ピアノ音楽の旧約聖書と言われる平均律は、バッハの鍵盤音楽の最高峰であることは間違いないですが、最もバッハらしい音楽とも言えると同時に、最もバッハらしくない(即興性と前衛性に溢れ過ぎた)音楽とも言える、両極端を内包した存在です。
シューベルトの即興曲も、もうひとつの作品142が「第2曲を除いた3曲はピアノソナタと捉えるべき」とシューマン(旦那ロベルトのほう)が言ったとおり・・・わたしには第3曲の有名な変奏曲を敢えて除くと残りの3曲はベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」へのオマージュだと思えます)整然とした調性進行に基づいているのに対し、今回演奏していただいた作品90は、即興演奏という意味ではないにしても、実に思いついた通りの大胆かつ自由奔放な調性進行のため、バッハとクララの対位法の作品との相性が意外なほど良好なのです。
楽譜出版の生業(なりわい)とクラシック音楽の調性
絶対音感のないわたしがこれまでにも何度か生意気にクラシック音楽の調性について書かせていただいてきました。
ドンジョヴァンニ~変装と転調の妙なる調和
「愛の調べ」も転調が妙薬に~シューマンの職人技
愛の調べの第二楽章
これまで書きつづったことは、実は相対音感だけでも理解し楽しめる内容です。最後に、絶対音感(または楽器演奏上のテクニックの問題に対する理解)がないとピンとこない話に触れます。
昨日、丹野さんがプレトークで面白い話をされていました。上記7曲に漏れていてアンコールにまわされたシューベルト「即興曲」作品90の第3曲は、変ト短調(♭が6つ)で書かれており、楽譜の出版業者から、「フラットが6つもあると楽譜の売れ行きが悪くなるから、(半音あげて)ト長調(♯1つだけ)に書き換えてくれ」と圧力を受け、それに甘んじて書きなおした(が後年改めて作曲者原案に戻された)というエピソードです。
短い人生にもかかわらず1000曲前後の作品を残した多産のシューベルトにとって、生前楽譜の売上と生計に貢献したのはアヴェマリア一曲だけだったという話も聞いたことがあります。そこまでの生活苦があったればこそ、一度は調性の変更(移調?)を受け入れたのでしょうが、クラシック音楽にとって半音の違いは実は一番大きな違いであり、いくら銭金(ぜにかね)に関わる話とは言え、シューベルトの魂を著しく苦しめたのは想像に難くありません。
ちなみに、初版の楽譜は、作曲家の意図せざるト長調であったことだけでなく、この曲全体の雰囲気を大きく変える、左手アルベッジョのひとつの音が改訂版と異なっています(繰り返される動機なので、実際には何か所か現れます)。右手動機を移動度で言うと「ミ~ミミミ~ド~」、これに対する左手は、初版では繰り返しの前後問わず、ド+ミ+ソで構成されていたのが、現在我々が耳にする分散和音は、繰り返し後、上記下線部分が、ド+ミ+♯ソに改訂されているものです。
この一音の改訂、、、「経過音」化、これまたたった半音の違いです、、、が、ドイツロマン派のど真ん中的存在であるシューベルトが、ショパンやリストなど後期ロマン派の鍵盤音楽への見事な架け橋になっているような気がします。
古い鍵盤楽器の音色
使用楽器は1820年頃制作されたJohann Georg Grober(←スミマセン、ウムラウトの表示の仕方がわからなくて・・・)、、、何と5本のペダルがあり、それぞれ特徴のある弱音機能であることを、演奏前のミニトークで丹野さんが実演含め解説してくださいました。うち、一本はペダルの渾名(あだな)がファゴットという現代のピアノには受け継がれなかったものです。
オーケストラ音楽同様、産業革命とともに、演奏規模もホールの収容人数も巨大化するなか、鍵盤楽器も大きな音を響かせるべきという価値尺度で進化していってしまったのでしょう。古楽器とはある種のシーラカンスかも知れません。ユニークなべダル機能のほか、ピアノ線が鍵盤に向かって全て垂直という意匠も特徴です。これを「平行弦」と呼ぶそうで、現代のピアノは、やはり音を大きく響かせるための工夫として、弦を平行ではなくクロスさせることが定着しているようです。
貴重な古楽器が200年近く丁寧にメンテナンスされ、演奏会場に運び込まれただけでも、演奏者の丹野さんをはじめ、スタッフ、主催者の皆さんの努力は相当なものだとわかります。
一言で言うと、ピアノの音、、、これもメーカーや型番、品番でかなり違うのですが、、、を日本の箏(こと)の音色に近づけたような印象で、ひとりだけクリスマスをすっ飛ばして正月を迎えた気分に酔いしれることができました(笑)。
作曲家の調性へのこだわり
丹野さん自身によるプレトークの内容は、古楽器の説明のほか、クラシック音楽における「調性」の話でした。
グスタヴィーノでいただいたちらしからはそんな内容の話が聴けるとは思わずびっくりしたのと、そういう意図なので、前半のプログラムの曲順が普通の演奏会ではありえない独特のものになっていたのです。
①バッハ「平均律」(第一集)ハ長調
②バッハ「平均律」(第一集)ハ短調
③シューベルト「即興曲」(作品90)第2曲 変ホ長調
④クララ・シューマン「前奏曲とフーガ」(作品16)第2曲 変ロ長調
⑤シューベルト「即興曲」(作品90)第4曲 変イ長調
⑥クララ・シューマン「前奏曲とフーガ」(作品16)第1曲 ト短調
⑦シューベルト「即興曲」(作品90)第1曲 ハ短調
本来は順番に弾かれる「組曲」が分解され、順番も逆転されたりしているのです(ただし上記①⇒②は本来通り)。
しかし、これらの楽曲を聴き慣れているひとも、そうでないひとも、たぶん何の違和感もなく、幻想的な転調の世界にひきづり込まれていったのだと思います。
あとで申し上げるように、冒頭の調性だけを並べてもあまり意味がないのですが、これら7曲がすべてフラット(♭)系の曲であり、その数は、①から順番に、
0⇒3⇒3⇒2⇒4⇒2⇒3(⇒0)
となります(戻ります)。最後の⑦は、冒頭ハ短調ですが結末がハ長調(ブラームスの交響曲第一番第1楽章と同じ)。ハ長調から短転(ドをラに読み替えて短調に転ずる)して始まったフラット(♭)の旅が巡り巡って最後は逆に長転(ラをドに読み替えて長調に転ずる)で我が家に戻ってくる形です。
ただ、この旅程は、見た目ほど綺麗で順調というわけではありません。シューベルトの曲名は文字通り「即興曲」ですが、バッハの平均律も、またそれと同じ題名である(バッハに対する明らかなオマージュである)クララの作品も、同じように即興的であり幻想的であります。
予定調和と即興性
バッハという作曲家は、以降のウィーン古典派の作曲家(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなど)やロマン派の作曲家(シューベルト、シューマン、、、、ブラームス、リスト、ショパン、、、)と対比させて、「神の音楽である」「予定調和の世界」「同じ動機が曲の何処をとっても現れていて“金太郎飴”」などと、一般には説明されるようです(出典「NHK教育テレビ『坂本龍一スコラ音楽の学校』」)。
バッハの鍵盤曲のなかで、「フランス組曲」「イタリア協奏曲」「パルティータ」「インヴェンションとシンフォニア」などは、確かに、各曲の後半部分の激しい転調部分も含めて、予定通りの、パターンに適った調性進行が殆どです。特に、「ゴルトベルグ変奏曲」も、変奏曲という定義上、大胆な調性進行はありえません(ただし例外的なト短調の3曲中3曲目のみ極端な前衛性があらわれています)。
今回冒頭で演奏された平均律第一集の最初のハ長調の曲も、それを「カバー」したグノーのアヴェマリアのお陰でわたくしなんかは和音進行を何とか記憶できるくらいで、平均律の各曲は、バッハの他の作品と比べて遥かに、「楽譜を見ずに鼻歌が歌える」程度に覚える、慣れ親しむのが難しい、、、特にマニアックな曲となると、例えば平均律第二集の変イ長調のフーガは、終結部直前の数小節はイ長調【正確に言えば変変ロ長調・・・フラット(♭)が9つ】にまで転調され、激しさにも程があると思うし、予定調和だとも思いません。
ピアノ音楽の旧約聖書と言われる平均律は、バッハの鍵盤音楽の最高峰であることは間違いないですが、最もバッハらしい音楽とも言えると同時に、最もバッハらしくない(即興性と前衛性に溢れ過ぎた)音楽とも言える、両極端を内包した存在です。
シューベルトの即興曲も、もうひとつの作品142が「第2曲を除いた3曲はピアノソナタと捉えるべき」とシューマン(旦那ロベルトのほう)が言ったとおり・・・わたしには第3曲の有名な変奏曲を敢えて除くと残りの3曲はベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」へのオマージュだと思えます)整然とした調性進行に基づいているのに対し、今回演奏していただいた作品90は、即興演奏という意味ではないにしても、実に思いついた通りの大胆かつ自由奔放な調性進行のため、バッハとクララの対位法の作品との相性が意外なほど良好なのです。
楽譜出版の生業(なりわい)とクラシック音楽の調性
絶対音感のないわたしがこれまでにも何度か生意気にクラシック音楽の調性について書かせていただいてきました。
ドンジョヴァンニ~変装と転調の妙なる調和
「愛の調べ」も転調が妙薬に~シューマンの職人技
愛の調べの第二楽章
これまで書きつづったことは、実は相対音感だけでも理解し楽しめる内容です。最後に、絶対音感(または楽器演奏上のテクニックの問題に対する理解)がないとピンとこない話に触れます。
昨日、丹野さんがプレトークで面白い話をされていました。上記7曲に漏れていてアンコールにまわされたシューベルト「即興曲」作品90の第3曲は、変ト短調(♭が6つ)で書かれており、楽譜の出版業者から、「フラットが6つもあると楽譜の売れ行きが悪くなるから、(半音あげて)ト長調(♯1つだけ)に書き換えてくれ」と圧力を受け、それに甘んじて書きなおした(が後年改めて作曲者原案に戻された)というエピソードです。
短い人生にもかかわらず1000曲前後の作品を残した多産のシューベルトにとって、生前楽譜の売上と生計に貢献したのはアヴェマリア一曲だけだったという話も聞いたことがあります。そこまでの生活苦があったればこそ、一度は調性の変更(移調?)を受け入れたのでしょうが、クラシック音楽にとって半音の違いは実は一番大きな違いであり、いくら銭金(ぜにかね)に関わる話とは言え、シューベルトの魂を著しく苦しめたのは想像に難くありません。
ちなみに、初版の楽譜は、作曲家の意図せざるト長調であったことだけでなく、この曲全体の雰囲気を大きく変える、左手アルベッジョのひとつの音が改訂版と異なっています(繰り返される動機なので、実際には何か所か現れます)。右手動機を移動度で言うと「ミ~ミミミ~ド~」、これに対する左手は、初版では繰り返しの前後問わず、ド+ミ+ソで構成されていたのが、現在我々が耳にする分散和音は、繰り返し後、上記下線部分が、ド+ミ+♯ソに改訂されているものです。
この一音の改訂、、、「経過音」化、これまたたった半音の違いです、、、が、ドイツロマン派のど真ん中的存在であるシューベルトが、ショパンやリストなど後期ロマン派の鍵盤音楽への見事な架け橋になっているような気がします。
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